ばあちゃん(紀野珍)
四台のストーブでぼんやりと温められた広間の隅々に、抑揚のきいた読経が行き渡る。
師走。北東北の午後二時。陽はだいぶ高度を落としているが、窓の外はまぶしいくらい明るい。うずたかい根雪に反射して射しこむ光が、祭壇と、パイプ椅子に腰かけて故人を悼む顔の面々を一様に照らす。ときおり、音を立てる勢いで風が吹き、建物をきしませた。
蝋燭の炎と線香から細くのぼる煙が落ち着きなく揺らめいている。
悔いがあった。ばあちゃんに、なにひとつ孝行ができなかった。
するつもりで時機を逸したわけではない。なんら行動を起こさず、いつかきっとの言葉をかけてよろこばせることもなく、不義理だけを積み重ねて、こうして永遠の別れを迎えてしまった。だから、後悔する資格すらない。僕は薄情な孫だ。
そっただこどで気ぃ病むこどね。ばあちゃんはそう言ってくれるだろう。
ばあちゃんは、つつましく、穏やかな人だった。粋で、かわいらしくて、働き者だった。そんなばあちゃんを僕は見て育った。
父と祖父は出稼ぎで一年のうち三ヶ月ていどしか家におらず、農家に嫁いですぐ二十歳で僕を産んだ母は子供心にも親の自覚に乏しい感じがし、自然と僕はばあちゃんを頼り、なついた。
ばあちゃんも僕をかわいがってくれた。といって、過保護にされた記憶は、少なくとも物心がついてからは、ない。孫のためとか、母に遠慮してとかでなく、それがばあちゃんの自然だったのだ。
長ずるにつれわがままになっていく長兄には、家族みな手を焼いたはずだ。幼時からひとり遊びを好むもやしっ子も、思春期に差しかかれば一丁前に荒れた。悪い友だちと付き合い、自意識をこじらせ、挙げ句不登校で母や教師を困らせたりしたが、ばあちゃんの態度に変化はなかった。受け入れるでも、突き放すでもなく、それまで接してきたように接してくれた。誰よりも——当時の僕よりも——僕のことをわかっていて、信じていたのだと思う。
大学に進学した初孫と離れ離れになったのは、ばあちゃんも寂しかったようだ。上京してしばらく、週に一度くらいのペースで電話がかかってきた。なんも用事はねえけども、と切り出すばあちゃんに、変わりはないよ、元気でやってるよ、と応えた。やがて、会話中、出し抜けに身体の不調を訴えるようになり、はじめは本気で案じ、励ましてもいたが、愚痴の内容が毎度同じなので次第にうんざりしてき、うんうんそうかそうかとむずかる子をあやすように相槌を打ち、後味悪く通話を終えるのが常であった。
いつしかその電話も止んだ。ばあちゃんが老人ホームに入ったからだと、あとで知った。
東京に越してからは、ほとんど実家に戻らなかった。
最後にばあちゃんと電話でなく話をしたのはいつだろう。十年前、入籍の報告をしに妻を連れて帰省したとき? いや、そのあと祖父の葬儀でも帰ったし、妹の結婚式でばあちゃんが上京した折りにも顔を合わせている。なんのついでだったかは忘れたが、三鷹の我が家に遊びに来たこともあった。
そして四年前、ばあちゃんは脳梗塞で倒れた。
報せを受け、押っ取り刀で駆け付けた。病院のベッドに横たわるばあちゃんは、記憶にあるばあちゃんと変わらなく見えたが、半身が麻痺し、喋れなくなっていた。
顔を覗きこむと、ばあちゃんの両目が僕を捉えたのがわかった。動くほうの掌に人差し指を載せると、意外な力強さで握りしめられた。その格好のまま、僕は泣いた。
つくづく救いようのない、不孝な孫だと思う。これでおばあちゃん子を名乗っているのだから、悪い冗談だ。
本当になにひとつ、ばあちゃんには恩返しができなかった。ばかりか、最後の最後で取り返しのつかない不義理をし、深く悲しませてしまった。
嗚咽が聞こえる。父だ。このあとの喪主挨拶は大丈夫だろうか。
読経が終わる。
父の隣、車椅子でうなだれていたばあちゃんが頭を起こす。虚ろな表情で、祭壇の中央で笑う遺影に視線を向ける。やりきれない。ばあちゃんのこんな顔、見たくなかった。
ごめん、ばあちゃん。
孫がさきに逝くなんて、最低だよな。