バンドを組めない人々(井沢)

頭上で生バンドの演奏音が聴こえてきた。青空の新宿三丁目は専門学校帰りの僕たち4人のラバーソールに踏まれる。普段ならそんな音は聞こえてこない界隈だが、今日は店のオーナーなりバンドメンバーなり誰かが窓を開けて演奏をすることにらした日らしい。

「バンドやってた?」
特に誰にと言うわけでもなく、前を向いたままジョージが言った。

「ドラム叩けたらな、と思ってた」
「あー」
K一郎が何かに気付いたような相槌を打つ。
「自宅にドラムセットがある奴はいたんだ。商売やってる家で、はなれみたいな部屋があって、たまり場みたいになってて。なんか体も気も大きい奴で。そういう奴は何故か自宅にドラムセットがあるもんなんだ」
「そういうとこいても、落書きとかばっかしてたでしょ」
「それっぽいロゴとか作ったりね」
「もったいないっちゃもったいなかったなあ」
そう言うと林は傘の先で削るような音を立てたり空振ったりしながら路面の「止まれ」の字の縦線だけをなぞって払った。
頭上を空打つ音に重なるように、別の生演奏が数メートル先から聴こえてくる。すばしこいスネアと腹を打つような低音は交差点を左に折れた先にいるようだが、人だかりの黒い後頭部しか見えない。なるほど、今日は何かそういう祭的な日なのだな。僕達はそちらには曲がらず直進する。
「ギターが弾けたらな〜。一人暮らしでもピアノほど場所とんないじゃん」
「シンセは?キーボードは考えなかったの?」
「馬鹿高い」
「それ言っちゃあ、どの楽器だってそうじゃん」
「そうかあ。そう言われるとそうだなあ。なんかシンセだけべらぼうに高いと思い込んでた」
「ギターのビンテージとかすごいじゃん」
「ちょっと弾いてたけど、今持ってない」
「弾いてたの?」
「この中の誰より進んでるな」
「兄ちゃんが持ってたりすると、触らしてもらったりすんじゃん」
「兄弟は強い」
「妹の漫画とかは読んでたけど、ギターはない」
「音楽に明るい兄はずるい」
「ませた音楽聴いてるやつはだいたい兄がいる」
「それかっこいい兄限定だから」
「なんかごめん」
「ん。え、俺?」
K一郎の妹は美人だ。黒髪のフランス女優みたいな女子高生だ。当の本人は少し前に世間を賑わせた韓国の俳優に眼鏡が似ている。ひょろ長い容姿はジャージがよく似合う。
「高校のときは確か
“中学からやってるやつにはかなわない”と思ってて、卒業したらしたで
“みんな高校の時にスタートしたのか”と思って、大学に行ったところで“今更手ぶらでサークルになんて入れないよネー”とか言って」
「もはや出てくる言葉は
“触ったことある”とかね」
「中学で兄弟のベースを触らせてもらった時点で 」
「高校でギターのコードを教えてもらった時点で 」
「大学でドラムの8ビートを教えてもらった時点で 」
「さほど練習する気にならなかった」
「つまり今やりたいと思ってるなら今はじめるのが一番賢いわけなんだけど」
「いやあ、やりたいって言うか」
「機材がない」
「舘ひろしか」
「場所もない」
「吉幾三」
「吉幾三といえば、あれ聴いた?マッシュアップの」
そこが盲点だ。あった時には思いもしないことだが、今はないのだ。とはいえ、その足で楽器屋に行くこともなく雨上がりの繁華街の地面を踏む。ドラッグストアの店先にじゃがりこが並んでいる。僕のすり減って船底みたいになったラバーソールは止まるより歩くのに向いている。林のコンバースの底に穴が空いているらしく、ぎしゅ、ぎしゅ、と変な音がする。きっといつのまにか靴下が濡れているんだ。皆その感覚を知っている。コンバースの底にはいつのまにか穴が空いて、いつのまにか何処かの路面の水を吸っているものなのだ。
そういった事実のほうが現実的だ。


やる気が起きなかったことを忘れて、環境が変わった先々できっとまた同じ会話をする。

「やっときゃよかったと思う」
「うん。やっときゃよかった」

そんなわけで「組もうか」なんつう流れになるわけもなく。
それはもう普通に、いつも通りに、帰り道は終わる。


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