さらば青春の光の単独ライブ「すご六」が私の涙をふいてくれた
「禍福は糾える縄のごとし」という言葉がある。
「禍福は糾える縄のごとし」とは、世の中の禍(災い)と福(幸せ)は、糾(もつれ)合った縄のように密接に結びついているという意味の日本の古典的なことわざである。このことわざから、人生においてよい出来事とわるい出来事は表裏一体なので、よい出来事が起きたからといって図に乗るのはよくないと言われる。
実際にSNSでの例をあげてみよう。
たとえばとある英語の資格試験の結果発表の日。自分の得点の画像を付けた、前回の点数よりも高かった、低かったなどの投稿を目にする。一方で「点数が上がったからってあんまりうれしいとコメントしすぎないようにしましょう。中には点数が落ちた人もいるのですから」という人がいる。
だが、本当にそうだろうか。うれしい出来事があったときに、全力でよろんではいけないのか。楽しいときに楽しんだらいけないのか。
私はそう思わない。
お笑いライブの直前に届いた訃報
5月のある日、私は大好きな「さらば青春の光」の単独ライブ「すご六」のチケットを手に、浅草公会堂に向かっていた。年に一度開催されるさらばの新作コントを堪能できる単独ライブ。私は、ついにやけてしまうのをマスクで隠しながら、浅草の人混みをかき分けていた。
すると、1本の電話がかかってきた。
「あのね、おとうさんが亡くなったから…」
入院中だった義父が亡くなったという。
浅草の少し奥の細道に入り込み、関係各所に取り急ぎ連絡を入れる。話しているうちに涙があふれてきて言葉に詰まった。
「だから…父が亡くなったんですって!」
私の心にある混乱と葛藤がにじみ出るように、自然と声が強くなる。
このまま家に帰るべきか、それともこの場に留まるべきか。
しばらく考えて、私は公演を観てから家に帰ることにした。お葬式のスケジュールにも余裕があるし、楽しみにしていた公演でもある。私は最低の人間かもしれないとも思いながら、会場に向かう。
浅草公会堂に入ると、入口でさらばのマネージャーであるヤマネさんが、私たちをグッズ列に誘導していた。
「あ…ヤマネさんだ!」
そのとき思った。「そうだ、私は大好きなさらばを観に来たんだ」と。一気にさらばが好きな気持ちがあふれてくる。
だが、座席に腰を下ろしても、私の気持ちはまだ揺れていた。ゆっくりと静かに涙が流れる。
涙が止まらないまま、さらば青春の光の単独ライブは開幕した。
1つ目のコントは、コロナ禍の日本が舞台になっていた。それがまた義父の訃報を思い出させてしまう。メガネを取って涙をふく。とにかく涙をぬぐわなければ、ライブに集中しなければ、と必死に考えているうちに1つ目のコントが終わった。
だが、2つ目のコントからは自然と笑いがこぼれた。そのあとも、幾度も笑い声をあげて、私は会場を後にしたのである。
公演を観てよかった、と心の底から思った。開演前の「今、公演を観てよいのだろうか」「私は本当に楽しめるのだろうか」といった不安がうそのように、気づけば私はお腹を抱えて笑っていたのだから。
今、人生のピークにいるのなら
人生にはよいことも、そうでないこともある。禍福は糾える縄のごとしで、よい出来事が起きたときには、よくない出来事が来ることを想定してあまりよろこびすぎないほうがいい、と言われるが、私はそうは思わない。
人生の山、つまり、よい時期には、その瞬間を全力で楽しむべきだ。その楽しさは、後に来るかもしれない谷、つまり困難な時期を乗り越える力となるからである。
よろこびの瞬間を心から楽しみ、悲しみや困難に立ち向かう勇気とエネルギーを得るためには、自分の感情に正直でいることが大切なのだ。
義父の訃報を聞いた直後の悲しみと、その後の大好きなさらばの単独ライブでの笑い。これらは一見矛盾するように見えるが、縄のように密接に関連している。だが、悲しみを引きずったり、笑いを引きずったりしていれば、残るのは後悔だけではないか。
うれしいときには、思いっきりよろこび、悲しいときはいっぱい泣けばいい。
それが私たちが生まれながらにして持っている最大の武器であり、生きるエネルギーなのだから。
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過去のさらば青春の光のライブレポートはこちら
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