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ポエムはみんな生きている(第三回)

詩人や小説家は愛すべきダメ人間?〜ARで巡る芸術家たちが共に暮らした理想郷〜 ni_ka

どうも、こんにちは、AR詩人のni_kaです。今回は、日本の詩人や作家や画家などの芸術家たち、いわゆる文士たちが、かつて近所に集って暮らし、毎日芸術談義や麻雀やダンスやテニスをし、社交していた文士村についてのお話しです。
都内の文士村として有名なのは、芥川龍之介が中心だった田端文士村と、尾崎士郎・宇野千代夫妻が中心だった馬込文士村がありますが、特に私のお気に入りの、東京の馬込文士村を中心にARと一緒にお話しをしてみたいと思います。
それではとりあえずAR詩とともにGo!

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(ni_ka作 AR詩 お茶の水)

なぜ、ARと一緒に文士村のお話しをしてゆくかと言うと、馬込文士村の文士たちの住居跡の多くが、ARゲーム「ポケモンGO」のポケストップになっているからなのです。馬込文士村を巡ってゆくと、かつてそこに住んでいた文士の似顔絵と説明が書いてある解説板のような小さな看板が設置されています。ただ、看板は小さく地味で、今となっては他の住居があったり、駐車場になったりしている住居跡が多く、注意深く歩かないと特に夜は通り過ぎてしまうような感じです。そこで、数年前に登場したARゲーム「ポケモンGO」を起動させてみると、見事に文士たちの住居跡がポケストップになっていたというわけで、時折文士村付近でお散歩をする際は、ポケモンGOをお伴にしています。

サイホーン白秋 写真2
白秋 写真3


馬込文士村は、たまたま文士が大勢住んでいたトポスではなく、尾崎・宇野夫妻が軸となって、独自のファッション・文化・生き方・思想が流行した芸術家コミュニティでした。有名文士の、友情や破天荒さやダメ人間さのエピソードがいちいち面白すぎるのも特徴です。尾崎士郎が『空想部落』という馬込文士村にまつわるとされている小説をのこしていますが、まさに一時の馬込文士村は、文士たちの理想郷=空想部落だったのでした。

馬込文士村に関する近藤富枝著の『馬込文学地図』に記されているエピソードを元に、このエッセイを書いています。日本の芸術家のサロンの役割を果たした本郷菊富士ホテルや、田端文士村についても、近藤富枝の著作が素晴らしく詳しく面白いので、未読の方はぜひ読んでみてくださいませ。

馬込文士村は、大正後期から昭和初期にかけて、現在のJR大森駅付近の大田区山王や大森や馬込を中心に、文士や芸術にまつわる人々が多数暮らしていました。有名文士の人数が驚くほど多くびびるほど。尾崎士郎と宇野千代夫妻を中心に、川端康成、萩原朔太郎、川端龍子、三島由紀夫、和辻哲郎、北原白秋、小林古径、室生犀星、徳富蘇峰、三好達治、立原道造、村岡花子、山本周五郎、山本有三、牧野信一などなどが住民だったのですが、これはごく一部でしかなく、錚々たる文士・芸術家たちがご近所さんとなり一大サロンを当時築いていたのでした。詩人や小説家やアーティストがごっそり住んでいたトポス、想像するだけで楽しいですよね。ものすごい数の文士たちが、尾崎・宇野夫妻や萩原朔太郎の勧めやら紹介やらで、わらわらとご近所に居を構えて交流し、ダンスや麻雀、テニス、酒、恋、ある種の青春を謳歌したらしいのです。

私ni_kaは、生まれが東京都品川区で、駅で言えば大森駅や大森海岸駅は近くでしたが、地元は歴史と言えば大森貝塚推しで、恥ずかしながら中学生になるぐらいまで近所の馬込文士村の存在を知りませんでした。和辻哲郎は大森駅すぐそばに住んでいたようですが、そんなことも知らずに、大森貝塚を発見したモース博士ばかり教えられた幼稚園生時代でした。馬込文士村は品川区にも若干広がっているものの、ほぼ大田区中心なので、「大田区所属の文化は品川区民キッズには教えぬ!」みたいな区戦争だったのかもしれません。大森貝塚も、品川区なのか大田区なのかをめぐって、かつてちょっとした仁義なき戦いが区同士であったらしいです。行政が絡むとなんだかせこい。

馬込文士村に関する主な著作の、近藤富枝『馬込文学地図』や西村敏康編『ビジュアル馬込文士村』や榊山潤『馬込文士村』でも、宇野千代がとにかくイケイケで進歩的で痛快な人として描かれています。さまざまな資料から、田端文士村よりも馬込文士村の方がずっと享楽的で色気のある印象を受けるのは、宇野千代の存在があるからです。イケイケ女性の宇野千代の影響で、馬込文士村は女性の存在感が圧倒的に強い。そこが魅力的だなと感じるひとつの理由です。時代もあり、どうしてもホモソーシャルになりがちなところを、女性も生き生きとしていた、それはとても重要なことです。
美術家や芥川龍之介がその中心だったといわれる田端文士村は、小林秀雄やプロレタリア文学作家も居住していて、馬込文士村で起きたとされるような珍騒動はあまり記録されておらず、真面目な印象。室生犀星や萩原朔太郎などは、田端文士村にも馬込文士村にも居住していたようです。やはり芸術家のサロンや梁山泊のような場所での交流は、インターネットもない時代にはとても貴重だったのだと思います。

写真4 文学者の顔
写真5 宇野ちよ


馬込文士村に文士たちが続々と集まって住んだ背景には、尾崎・宇野夫妻の人柄や人望などに加えて、プロレタリア文学の流行があり、例えば川端康成のような芸術家作家の立場はおいつめられていたような事情もあると、近藤富枝は記しています。プロレタリア作家の原稿料は安くてすむので、プロレタリア文学に迎合しなかった作家たちは、この時代おしのけられ辛酸を舐めていたようでした。だから当時まだ郊外で比較的家賃などが高くはなかった馬込付近に、経済的に苦しかった文士たちが集ったというところもあるらしいのです。後にノーベル文学賞を受賞し国際的な評価をうける川端康成も、馬込文士村での家賃は滞らせていました。

当然、川端の家賃はとどこおったままである。家主がさいそくにくると、彼は自分の仕事部屋へ通し、傍へ坐らせて相手にしゃべらせ、自分は机に向かって振り向きもせず原稿を書いている。そしてときどきギョロッと目をむく。川端が一言も言わないうちに家主は退散した。そのようすをみていた(尾崎)士郎は、
「川端は全くえらい奴だ。肝のすわった男だ」
と吹聴した。
(近藤富枝『馬込文学地図』p104)

気難しげな芸術家オーラを出して家賃を払わない川端、家賃を払うよう仲介するわけでもなくただその様子を観察して、家賃を払わない川端を褒め挙句吹聴する尾崎。大家さんからしたら嫌すぎるコンビである。私の気のせいだとは思うけれど、川端康成の居住跡の案内板はちょっと見つけにくい場所にひっそり石坂洋次郎と一緒にあって、家賃滞納者だったから目立たなくされたのだろうか……などと考えてしまいました。

川端康成

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