
(第3回)〈宇多田ヒカル〉論
(参考:約5400字)
「Automatic」
〈はじめに〉
誰もが認めるであろう「Automatic」、宇多田ヒカルの代表作の一つ。イントロから引き込まれる。初期のころの曲を聴くといつも思うが、キャリアを重ねた今の声とは少し違う、かすれる感じが何よりも良い。それがどこか切なさを感じる。若さというかまだ美しく研磨される前の、でも粗削りながらも良いというような感じを思わせる。
曲全体について言えば、淡く、大胆でない、距離感が少しある恋人を思わせる。二人で時空間を共有するときには「ドキドキ」したり「ハラハラ」すると感じるのに、「あいまいな態度が まだ不安にさせるから こんなにほれていることは もう少し秘密にしておくよ」とも思っている。強がりを見せる、見せようとする。だが、「指輪」に触れることで希望を、コンピュータに映る文字に手を重ねることで温かさを感じる。そんな相反する感情を持つ。最後には、「側にいるだけで 愛しいなんて思わない ただ必要なだけ (I don’t know why) 淋しいからじゃない」と言うのだからやはり強がっている。だがどうだろうか。思い返せば、距離感のあるはずでない二人に距離感を無意識に保ってしまう、越えられず、素直になりたくてもなれないことはあったかもしれないと思い返す。そんな初々しく、複数の感情が同居する一面を見せている。
〈第1連――言葉無きコミュニケーション:匿名性と特定性の共存――〉
七回目のベルで
受話器を取った君
名前を言わなくても
声ですぐに分かってくれる
ここでは「エモ」さを思わせる。第一、七回もベルを鳴らすだろうか。受話器から想定するに家の固定電話であろう。もし家に誰かがいるなら違う人が出るのではないかという不安に苛まれてならないだろう。ましてや両親が出るなど想像すれば手が震えそうなものである。宛名に沿わない誤配は怖い、手紙の誤配、電話の受取人の誤配。
ここで以下のように考えてみたらどうだろうか。二人のコミュニケーションとして、七回ベルを鳴らす、七回目に電話を取る、と。その条件、言葉無き、無機質なベルの回数を通したコミュニケーション。無機質な、匿名的なベルから宛名の特定できるベルへ。固定電話に誰からの電話であるかは表記されることはない。あったとしても登録しないだろう。親にその事情を話すことなど考えられないからである。七回のベルで誰から電話がかかってきたかが分かる(特定性)が、それまでは誰からかわからない、誰が出るかもわからない(匿名性)。言葉を交わさないコミュニケーションがそこにはある。
その両者の共存は今や無い。LINEなら常に宛先は登録されているし、スマホで電話に出る以上常に相手は特定される。固定電話の時代だったからこその緊張感があったのではないだろうか。「エモ」を感じる。
〈第5連――「君」と二人だけの世界へ、そして〈世界〉へ――〉
It’s automatic
抱きしめられると
君とparadiseにいるみたい
キラキラまぶしくて
(I don’t know why)
目をつぶるとすぐ
I feel so good
It’s automatic
目を閉じる、それは外界との視覚を通した接触の遮断である。抱きしめられるとき「君とparadise」にいるように「キラキラ」している。ではなぜ「目をつぶる」のか。「paradise」にいるみたいに現実と外部を甘受していればいいのではないか。もしかしたら「君」のいない世界や「君」の懐にいられないときの現実はもちろん「キラキラ」した「paradise」ではなく、恍惚感などまるでない、色褪せた世界なのかもしれない。そんな色褪せた現実世界と「君」が「paradise」に連れて行ってくれるような感覚の共存、「現実の浮遊感」からであると言おう。なじみある外界=世界と抱きしめられ「paradise」にいるような非現実感、つまり現実との乖離を感じているからではないかということである。目を閉じれば、相手との身体的な接触、確かに相手はいるという感覚的な直観だけがある。自分以外の誰か=「君」が、親密な愛する「君」が側にいて、その息遣いと身体の接触、「君」の熱、体温だけが確かさを保証する。それは、目を閉じることによる外界の拒絶からくる「二人だけの世界」に入ることができることを意味するのではないだろうか。目を閉じ、その熱、温かさに包まれ、どちらが温かさをもたらしているのか、抱きしめられているとともに抱きしめてもいるのではないか、能動と受動の逆転、混合がもたらす融合感覚、それは二人でありながら一つとなった官能的な世界にすら入ることを許してくれ、もたらすものである。
実在する(物理的な)世界と私の(観念的な内的な)世界という入れ子構造、重層性がある。現実から逃避するかのように「二人だけの世界」、それは二人にして一つの融合の世界の住人にとなる。実在(客観)としては「現実の浮遊感」の内に二人の関係がある一方で、観念的には「二人だけの世界」で一つの「〈世界〉」へと導いてくれる、それが「君」なのである。
〈第6連――不安にさせるようとすることは不安なのである――〉
あいまいな態度が
まだ不安にさせるから
こんなにほれていることは
もう少し秘密にしておくよ
ここでは、ここまでの言葉とは裏腹に一方的な愛の言葉ではない。ここまでは相手との関わりの中で一方的に気持ちが向いていることを感じさせる、相手がどう思っているかは明かされない構造になっているのだから。この連では、「不安にさせる」ことに焦点が当たっている。自分の内面を素直にすべて伝えてしまってはもったいないといった感覚だろうか。自分を巡って「不安」になってほしい、つまり、いつか手から離れてしまうのではないかと思って欲しいという気持ちの表れと取れる。まさに「あいまいな態度」とはそういうものを意味する。惚れているか惚れていないかといった曖昧性の内にある関係、シーソーに跨る様に両者が地面を蹴り続けるという動的な持続性に相手からのメッセージを受け取ることができるという希望を抱いているのである。逆に言えば、そうでないと「不安」なのである。確かさが得られず、不安のない日常、平凡な言葉や行為ではその関係が薄れてしまうような感覚があるということだろう。
ここでは谷崎潤一郎の「秘密」を思い出す。手に取るようにわからない、捉えられない相手だからこそ、あれこれ考え、幻想や希望、欲望を投影する対象として相手が現象する。まるで沼に入ったかのように入れ込み、一杯になる。秘密が明かされたとき、相手の魅力は瓦解してしまう。この連での「秘密」も谷崎が描いた秘密の効用に預かりたいという欲望が渦空いているかのようだ。何かを投影される側の主であり、主導権を握っている、手玉に取っているかのような感覚に安住の地を見出そうとする姿勢が見られるのではないだろうか。
ここでわかるのは、「まだ」という語が示すように、上記の手段が有効であるような、まだすべてを知らず、関係が確固としたものではない関係ということである。〈はじめに〉で書いたように距離感のある関係であることが、この連ではひしひしと伝わってくる。持続と持続しない感覚、かりそめの方策。
〈第9連――モノ、warm――〉
It’s automatic
アクセスしてみると
映るcomputer screenの中
チカチカしてる文字
(I don’t know why)
手をあててみると
I feel so warm
ここでも物理的に距離があることが示されている、「computer screen」を通して二人のコミュニケーションがなされている。「文字」と言うことから考えてメールを使ったやり取りなのだろう。
メールは主に文字を使って伝達する媒体である。ここでメールで使われる文字について考えてみると、文字の様式は一様である。この文章で使われる文字もまた同じ性質を持つだろう。比較すると、会話であれば、声色を通した調子や表情、相対するときに感じられる雰囲気といった具合にその時々で様々である。文字に調子は存在しない、常に一定の温度感でこちらに語り掛けてくる、もちろん文体やそれまでのやりとりの文脈というものは存在するが。
そしてそんな文字は「computer screen」を通して「チカチカ」している。いつ消えるかもわからないかのような不安や緊張が伝わってくる。それはやりとりの相手もまたそうなのではないだろうか。前述したようにどこか不安定な関係――ちょっと相手を試したくなってしまうような不安を伴う関係(第六連)――が反映されているとも考えられる。また、消えたり、映ったりを繰り返す文字=「君」との関係は曖昧さがあるのではないだろうか。だからこそ、抱きしめられるは「paradise」へ、そして目を閉じ外界を拒絶した二人だけの関係と言った現実からの逃避行(非現実感)が可能になるのであり、「君」を不安にしたいとも思う。そんな緊張感ある関係、だが、現実に一条の光を注ぐ関係でもあるといった関係見出すことができる。
今は眼前にいない「君」。「君」が送ってくれた点滅を繰り返す文字列に「手をあててみると」「so warm」、温かさを感じる。文字列には温度は無く、むしろ冷たく、無機質である。だが、「君」の言葉が、「君」の存在を保証する、だから「warm」なのである。自分に向けてだけ送ってくれた言葉、宛先が自分、私であることがどれほど嬉しく、「warm」であるか。
〈追記〉
モノに「君」を見出すのは、ここだけではない。第7連、「指輪をさわれば ほらね sun will shine」。物理的に距離が離れていても、モノが「君」の存在を保証す、確認できる。いないのにいるように、ともにその場を共有しているかのように感じるのだ。そうやって、一人ではない〈世界〉を感じ、疑いもなく没入する体験というのはどれほど素晴らしいものなのであろうか。間違いなく生は「君」に支えられている。恋人とは独立した個人の関係であると誰かと議論になったことがあるが、今でもそうは思わない。自分の人生を方や支配しているように、かつての世界からの追放が新たな〈世界〉への没入をもたらす、だからこそ、モノにあるはずのない温かさや「君」の確かさを信じたくなるのではないだろうか。そのような心性がどうして独立した個人の関係だと言えよう。もはや「君」無しでは・・・という意識がそうさせているのではないかと思う。
〈第11連――二つの感情と大胆な告白――〉
It’s automatic
側にいるだけで
愛しいなんて思わない
ただ必要なだけ
(I don’t know why)
淋しいからじゃない
I just need you
二つの感情とは、強がりと素直さである。「側にいるだけで 愛しいなんて思わない」、「淋しいからじゃない」この二つには強がりの感情が垣間見える。そんなに軟でないという感じだろうか、第六連の延長にある感情である。弱さについては、「「ただ」必要なだけ」が物語るように、どんな理由もなくただただ「君」を必要とする。ここでは何のために「君」は私にとって必要なのだろうか。「生」ではないだろうか。もっと言えば、「二人の世界」の住人になるという新たな〈世界〉、私にとっての恍惚とした〈世界〉に生きるために必要ということである。ここでは私のために「君」がいるというような類の告白をしているのではない。「君」でなければならないのである、その交換不可能性、絶対的で大胆な愛の告白である。それも、必ずしも空間を共に共有することを前提としない関係で成り立つものなのである。それはおそらく、〈世界〉は「君」であり、「君」は私の〈世界〉そのものであるというような関係なのだ。「君」でなければ〈世界〉は瓦解する、そんな信仰告白とも言える連であるように思う。
さいごに――「君」と〈世界〉と私――
少々自分の考えに寄りすぎた読みになったかもしれないが、それはそれで、自分が読んだことの証左として良いとしよう。これほどロマンティシズムに満ちた曲なのではないかもしれないが。最後に一言。「Automatic」とは、「君」が〈世界〉なのだ、それは文字通り、「自動」に導かれるもはや忘我といっても差し支えない〈世界〉への信仰告白をしているのではないだろうか。私は、強大な「君」にのみ込まれようとも、飲み込まれるからこそある〈世界〉への憧憬と心地よさがあるのだと信じたい。だからこそ〈世界〉に自分が肯定的に存在しているような希望を持てるのではないだろうか、一方で、世界には私はただただいるに過ぎないのであるが。「君」によって忘我でありながらも、私は〈世界〉に存在する、といった論理矛盾があるかもしれないが、〈世界〉に私が存在することは仕方なくそうであろう。そして、仕方なく存在することへの満足と納得をもたらしてくれるのが「君」であり〈世界〉なのであると少なくとも私は信じている。