処女作:ペンギンも空を飛べるはず
「ねえ、どうして私は空を飛べないの?」
広大な南極大陸のちっぽけな氷山の上で、コウテイペンギンの子はポツリと弱音を吐いた。一面の銀世界と吹きすさぶ極寒の風が支配する空間では、そんな些細な疑問ですらも厳かに包み込む。彼女は、今よりもずっと幼い頃に群れからハグれた一羽のペンギン。両親の顔も知らなければ、生まれた場所さえも分からない。ましてや自分の正体ですら不確かなものだった。彼女は今日も、凍えそうな氷の上で自由な大空を羽ばたくワタリドリを見上げていた。
「…それは、君がペンギンだからだよ。」
酷なことだと承知の上で、私は彼女に事実を告げた。でもそれはきっと、彼女自身が誰よりも分かっていたことに違いなかった。彼女は生まれながらにしてペンギンで、大空を舞う優雅なカモメでもなければ屈強なワシでもない。
それは、紛れもない“飛べない鳥”だった。
「そんなの、あんまりよ。ねえ、教えてよ。じゃあ何が悪いの?私がこの世に生まれてきたのが間違いだったていうの!?」
「落ち着きたまえ、君。そうじゃないよ。誰にだって、得意不得意はあるものなんだ」
世界を嫌い、自分を嫌い、何もかもを嫌ってしまいそうな彼女だったから、慌てて私は諭すように言い返す。
「それでも、……私は空を飛んでみたいの!」
空を夢見るペンギンの嗚咽が鋭い極寒に空しく響いた。やがてそれはこだまし、繰り返される度にその音は小さくなっていく。
瞳に映る涙は今にでも凍ってしまいそうで。希望の灯火は今にでも消えてしまいそうで。
物欲の少ない私にとって、そのような激情は理解し難いものだった。
どうしてそこまで彼女が空を飛ぶという行為に固執するのか。一体どうして、自分に備わっておらずどうしようもできないことに手を伸ばそうとするのか。
憧れか、あるいは…。
「理由を聞いても?」
踏み込んだ質問はリスクを孕むが、乗りかかった船というものだ。
「それは…みっともない自分が、嫌で嫌で仕方がないからよ!鳥は空を飛ぶ生き物のはずでしょ?でも、私にはそれを叶えるだけの羽毛が、いつまで経っても生えてこないのよ!」
あぁ、それは…。
「そんなことって、ある?ねえ、なんで?教えて?醜い私なんかがここにいてもいいのかな…?飛べない鳥なんかに、生きる価値はあるのかなぁ……?」
大粒の涙と混ざり、悔しさと嫉妬とが氷柱のように落ちてくる。
そこで私は確信した。彼女はきっと、間違えてしまっている。致命的な部分で、勘違いをしてしまっている。その過ちは、彼女が空を飛ぶ努力が足りないだとか、ましてや彼女がこの世に生まれてきてしまったからなどでは、断じてない。
まずは彼女の涙を止めてやりたい。今はただ、そうしたかった。
「ああ、君、どうか泣かないでおくれ。生きる価値?口にするまでもない。もちろん、あるに決まっているだろう。だからほら、顔を上げて。大丈夫、大丈夫だから」
「大丈夫って、何がよ!」
私がそう慰めると、彼女はシャーベット状になった涙の結晶を拭って、真っ赤になった瞳をこちらに向けた。
「確かに君は、空を飛べないのかもしれない」
「…そう。だから私なんて」
「『私なんて』、なんなんだい?」
「…え?」
「後に続く言葉は?ほら、どうぞ」
「?……い、いなくなっちゃえばいいのよ!どう!?これで満足した!?」
怒りと恥ずかしさを顕わにして、今度は別の要因で赤く染まる彼女が怒鳴り上げた。
「ああ。それ、そこなんだよ。それこそが君の最大の過ちだ」
「どういうこと?」
きょとんとした彼女はおもむろに首をかしげる。
「どうして、『いなくなってしまえばいい』なんて結論に至るんだい?空を飛べるか飛べないか、という問題に関してちっとも関係ないではないかね」
「あるわよ!私は『鳥』なのよ!鳥は空を飛ぶ生き物。それができない時点で、鳥類として失格なのよ…」
鳥類失格だと、面白いことを言う。
「君が捕らわれている呪いの正体を教えてあげようか?」
「それなら知ってる。“飛べない呪い”でしょ?」
「いいや、劣等感だよ」
「……れっとうかん?」
彼女は眉間にしわを寄せ、聞き慣れない言葉を復唱する。
「そもそも一体、鳥が空を飛ぶものだなんて勝手なこと、誰が決めたんだい?」
「誰って、空を見れば分かるでしょ?ワタリドリたちは今でも自由に飛んでいるじゃない」
「だからなんだって言うのかな?いいことを教えてあげよう。大昔、鳥は空を飛べない生き物だったんだよ」
「そんなまさか!…それってほんとうなの!?」
驚いた表情で彼女は私に詰め寄る。
「もちろんだとも、私が保証する」
「でも、それって昔のことじゃない。意味ないわ」
しばらくして、いつもの仏頂面に戻ってしまった。
「いや、そうでもないさ。少なくとも、鳥は空を飛ぶだけの生き物ではないと分かってくれたらいい。ペンギン以外にも空を飛べない鳥はいるからね」
「はあ、そう」
訝しんで彼女はため息をつく。
「それに何より、たとえ空が飛べなくたって、君だけにしかできないことがあるじゃないか」
「そんなの…ないよ」
「いいや、ある」
私は彼女の誤解を解いてやりたい。けれど、それを成すのは彼女自身がそれに気づかなければならない。結局のところ、いつだって私たちの救世主は私たちの中にしかいないのだ。
「君に似合うのは空の青さじゃない。この、大海の青さなんだ!」
だから、私は彼女の背中を押してやることしかできない。彼女にとって、最善の道標をしてやることしかできない。正解ではなくヒントを。魚ではなく魚の捕り方を。後は見守るだけだなんて、無責任なことかもしれない。でも君は、今までだってそうしてきた。そうやって乗り越えてきて、今、この氷山の上にいる。
「ちっぽけだって、構わない。君の生きた証は、決して裏切らないんだよ」
「…でも、変だよ。海を泳ぐなんて、まるで魚みたいじゃない?」
また暗い表情に戻ってしまう。
「変なんかじゃないさ。君は正真正銘の鳥類で、立派なクチバシがついているじゃないか。それに私は、海を泳ぐ鳥がいてもいいと思うんだ」
生きる上で、他者と自分を比較するのは必要なことだ。けれど、それにのめり込みすぎてはいけない。間違えた劣等感を抱いてしまうと、盲目になり常識という名の先入観に支配されてしまうだろう。
「君に劣っているところなんて、一つも無かったんだ」
彼女は唯一無二の存在だ。万人は他人に評価されて初めて自分が何者かを理解する。誰だって自分の魅力に気づけていないだけなんだ。
「……うん、なんだか、そんな気がしてきたかも」
「君は君だ。それ以上に必要なことなんて、多分ないんだよ。周りと異なることを、どうか恐れないでくれ」
「そっか…そうだったんだ。ごめん、ありがとう。私はずっと大切なものを忘れてしまっていたみたい」
気づけばすっかり涙は止まっていて、彼女は落ち着きを取り戻していた。
「決めた。私、旅に出てみることにする」
凜々しい彼女にあてられ、思わずこちらが少々戸惑ってしまう。
「そうかい。胸を張って行くといい」
「うん、でもやっぱり、ちょっぴり寂しいかも」
世界は、彼女が想像しているよりもずっとずっと広い。これから様々なことを見たり聞いたりするだろう。時には大きな困難や危機にさらされる日が必ず来る。しかし、今の彼女なら乗り越えられると私は信じている。
彼女の旅路が、どうか明るいものになりますように。そんな願いを込めて私は彼女を送り出す。
「大丈夫。君は独りじゃない。寂しくなったらまた私のところにでも戻ってきておくれよ。できることは少ないが、話くらいは聞ける」
「うん、本当に…本当にありがとう。私、頑張ってみるよ」
真珠にも負けない、輝かしい笑顔を見た。
「また会える日を、いつの日か」
「ああ、楽しみにしているとも」
そうして私と彼女は別れの言葉を交わし、いつかの未来への約束をした。きっと私たちはまた、この氷山の上で再会するだろう。確信はない。けれど、私の経験と彼女の目が、そう訴えかけてくるのだ。
冷たい海の暗闇へと彼女は吸い込まれていく。
自信に満ちた後ろ姿を見守り、私は祈る。
どうか、強く生きて欲しい。そしていつの日にか、見違えた君の姿を私に見せて欲しい。
自分の存在を、個性を、唯一無二を愛して欲しい。冒険の行く末がどのようなものであっても、君だけの我が道を進み続けられますように。
そうすればきっとペンギンも空を飛べるはずだ。
――――と、広大な南極大陸の、ちっぽけな氷山の上で、ちっぽけな貝殻は思いを馳せた。雲に隠れていた太陽が頭を覗かせ、極寒の世界を照らし出す。
寒さは変わらずとも、今日はいい日になりそうだ。
「なに、喋る貝殻がいてもいいだろう?」