樋口一葉『にごりえ』 第一章 現代語訳訳
第一章の登場人物
・お高、高ちゃん …… 銘酒屋「菊の井」の女性。ウデがなく、1人でもお客さんが欲しい。
・お力、力ちゃん …… 銘酒屋「菊の井」で女性。ウデのある人気の女性。『にごりえ』のメイン人物。
・源七、源さん …… 第一章では会話の中のみで登場。お力の元常連客。今は落ちぶれて金がない。
なお、銘酒屋とは、お酒をだす料理店と建前で表向き営業して、実態は女性を売っていたお店。
第1章では、銘酒屋「菊の井」ので働くお力とお高の2人のやりとりがメインです。
以下が本文です。
第一章
「ねぇ、木村さん、信さん。寄っておいでよ。寄ってよと言ったら、寄ってくれてもいいでしょ。また素通りで二葉屋へ行く気でしょう。 おしかけて、引きずりだしてやるからね。ほんとにお風呂なら、帰りに必ず寄っておくれよ。嘘つきなんだから、何言うかわかりやしない」
と店先に立っている女は、常連客らしい下駄の男を捕まえて、小言を言う。
男は、腹も立てず、言い訳しながら「あとで、あとで」と通り過ぎた後、
「あとでなんてない癖に。来る気もないくせに。ホントに、既婚者になったから仕方がないね」
と、店の敷居をまたぎながら独り言を言った。
「高ちゃん、だいぶお悩みだね。何もそんなに気にすることない。焼け木杭(ぼっくい)と何とやら、まだ戻る事もあるよ。心配しないで、おまじないでもして待ってればいいよ」
と、慰めるような仕事仲間のお力の言葉。
「力ちゃんと違って、私にはウデがないからね。一人でも逃したら、残念だよ。私のような運の悪い者にはおまじないも何もききはしない。今夜もまた店番か、面白くない」
と、癇癪のあまり店の前に腰をかけて駒下駄の裏でトントンと土間を蹴る。この女性・お高は、27歳か30歳ぐらいで、眉毛を引き抜いた化粧をして白粉(おしろい)をべったりつけて、唇は人を喰う犬のように赤い。
お力と呼ばれる女性は、中肉の背格好でスラリとしていて、キレイな髪の大きい島田髷(しまだまげ)を新しい藁で束ねてフレッシュで、首もとの白粉も美しく見える。天然の色白の肌をこれみよがしに服をだらけさせ胸を露出させて、煙草をスパスパ長いキセルをくわえて、立ち膝の無作法さも咎める人がないことを良いことに。思い切った大きな裕衣に、帯は黒繻子の帯と何やらのマガイ物、緋の平ぐけ帯が背中に見え、言わずともこのあたりのお姉さんの姿である。
お高という女性は洋銀の簪(かんざし)で天神というヘアスタイルの髪の下を掻きながら思い出したように
「力ちゃん、さっきの手紙は出したの?」
と聞くと、
「はぁ」と気のない返事をして、「どうせ来ることはないけど、あれもお世辞さ」と笑っている。
「たいていにしなよ。巻紙3mの手紙の書いて、2枚も切手を使う大きな封筒をお世辞で送ってくれる? そして、あの人は赤坂からの常連さんでしょう? ちっとやそっとのいざこざがあっても、縁を切るもの? あなたの出方一つで何とでもなる。ちょっとは精を出して引き止めるように心がけたら良いでしょう。そんな態度だと、バチが当たるよ」
とお高が言えば、
「ご親切にありがとう。ご意見は承ります。私はあんな奴は虫が好かないから、なかった縁と諦めて下さい」
とお力は他人事(ひとごと)のようにいい、
「あきれたものだ」とお高は笑ってしまい、「お前は、そのワガママが通るから景気が良い。こんな風になっては、仕方がない」とウチワを取って足元をあおぎながら「若い頃が花よ」とおかしく言った。
表を通る男を見かけては「寄っておいで」と夕暮れの店先はにぎわっている。
その店は二間の間口を持ち、二階建てであった。軒には「御神燈」と書かれた提灯を掲げ、塩を盛って縁起をよくしていた。何かしらの器や壜が空になった後も飾ってあり、多くの銘酒が棚に並んでいる。台所のあたりは七輪を使っている音が騒がしく、女主人が手作りの鍋や茶碗蒸しぐらいを出してくれることもあった。
表に掲げられた看板を見ると、訳ありげに「御料理」と書かれている。しかし、お客が料理を注文したら、何というのだろう。すぐに「今日は品切れ」というのもおかしく、女ではないお客様には「別の店に行くように」と言うつもりであろうか。
しかし、世間は嘘や商売を心得ており、口取りや焼き魚を注文しに来る田舎者はいなかった。
「お力」という女は、この店を代表する看板で、年は若いけれども客を呼ぶのが不思議なほど上手だった。その彼女の愛想もお世辞もなく、わがままな身の振る舞いがあり、少し容姿に自慢があるのかと思えば若くてかわいい顔が憎いという友人もいるが、付き合ってみると女性であっても彼女から離れたくないという気持ちになる。
ああ、心とて仕方のないもの。面ざしがどことなく冴えて見えるのは、彼女の本性が現れているのでしょう。新開という場所に入る者であれば誰でも、菊の井のお力を知らない者はいないでしょう。菊の井のお力か、お力の菊の井か、それにしても、有望な者。あの娘のおかげで、新開という場所に光が加わり、雇い主は神棚に捧げて置いても良いくらいで、軒並み周囲の人たちの羨望の的となった。
お高は、行き来する人がいないのを見て、
「力ちゃん、お前のことだから何があっても気にしてないだろうけど、私は身につまされて源さんのことが気になる。旦那は今の身分に落ちぶれてから、いい客ではないけれど、思い合ったからには仕方がない。年齢が違っていたり、子供がいたりするけれど。ねぇそうゃない? 妻がいるからって、別れられるもの? 気にしなくていいから、呼び出して。私の男だったら、男が根っから心変わりがして私の顔を見ただけで逃げ出すから、仕方がない。諦めて別のお客を探しに行くけど、お前はそうじゃない。お前の気持ち次第で、今の奥さんに三半袖をやることもできるけれど、お前は気位が高いから源さんと一緒になろうとは思うまい。既婚者だからこそ、呼び出す前に細かいことを話す必要があるだろう。手紙を書きな。今に三河の使いが来るだろうから、その小僧に使いをやらせよう。お前は思いやりがよすぎるからいけない。とにかく手紙をやってごらん。源さんも可哀想だ」
と言いながらお力を見ると、キセル掃除に夢中なのか、うつむいたまま何も言わない。
しばらくして、キセルの雁首の部分をキレイに拭いて一服してポンとはたき、また吸い込んで、お高に差し出しながら、
「気をつけてよ。店先で言われると、人聞きが悪いでしょ。『菊の井のお力は、土方の手伝いを愛人に持つ』等と、考え違いをされるといけない。その人は昔の夢物語。今は忘れてしまって、源とも七とも思い出しません。もうその話はやめやめ」
と言いながら立ち上がると、表を通る兵隊の一団が通りかかり、
「こら、石川さん、村岡さん、お力の店を忘れちゃった?」
とお力が呼ぶと
「いや、相変わらず威勢のいい声で、素通りもできない」
と言ってズッと入り、たちまち廊下でばたばたという足音がして、姉さんが「お酒は何にする?」と声をかければ、「おつまみは何を」と答えます。
三味線の音が心地よく聞こえて、乱舞の足音が聞こえてきました。
以上、第一章終了。
【原文の単語リスト】
焼け木杭(ぼっくい)に火が付く: 一度焼けた杭は火がつきやすいところから、一度男女の関係になったら、また元の関係に戻りやすい、という意味。
木戸: (芝居などの)興行場の出入り口。町々の境界に設けられた警衛のための門。
木戸番: 出入り口での店番、と考えられる
とん/\: トントン。「/\」は、繰り返し。擬音語。
乳(ち): 「ちち」とも。羽織の紐を通す部分。
すぱ/\: スパスパ。「/\」は、繰り返し。タバコを吸う擬態語。
雁首(がんくび): キセルの、タバコをつめる部分。
烟管(キセル): きざみタバコを吸うための、細長い道具。1953年の実写映画では、なぜか紙タバコを吸ってる。
島田髷(しまだ まげ): 女性のヘアスタイルの1つ。未婚の女性や遊郭の女性が特にしていたとのこと。『にごりえ』第5章で、子供に若作りしてるように見られる島田髷を恥ずかしがる女性の話がある。
情夫(まぶ): 遊女の恋人。愛人。
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樋口一葉『にごりえ』現代語訳
樋口一葉『にごりえ』現代語訳したものです。 現代語訳: 西東 嶺(さいとう みね)
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