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コーヒーを愛しコーヒーに愛された人

薄暗い階段を登り、古い扉を開けるとコーヒー豆の香ばしい香りとアップルパイの芳醇な甘い香りが嗅覚を刺激する。

カウンターに通されてメニュー表を見る。
「オススメ 自家焙煎オリジナル」
それ以外頼まないでくださいと言わんばかりの文字の大きさ。メニュー表の7割を占めている。

郷に入っては郷に従え。自家焙煎オリジナルをブラックで頼むと、マスターも「分かってるじゃん」という風にニコリと微笑む。

そしてひとくち。

「に、苦い」

雰囲気にのまれて忘れていた。
僕はブラックコーヒーが苦手だ。


学生時代にカフェでアルバイトをしていたことがある。「大学生といえばカフェでしょ」という安直な理由から面接を受けに行き、働くことになった。

僕が働いていたカフェには、「ブラックエプロン」と呼ばれるコーヒーマスターのような人がいて、ひとくち飲むだけで(なんなら匂いだけで)豆の産地や種類を当てられる。

年に一度開催されるテストに合格することで獲得できるのだが、この試験がまた難しいらしい。
販売順、生産地、農場の名前、相性のいいフード等、コーヒーの知識全般を暗記するのは当たり前。それに加え、コーヒーの産地の民族衣装など雑学まで頭に叩き込む。

僕の働いていた店舗には、1人だけ主婦のまいこさんというブラックエプロンの方がいた。
彼女いわく、某国家資格より取るのが大変だったとのこと。ブラックエプロン恐るべし。
そして何よりも恐ろしいのが、合格しても時給は1円も上がらないこと。

まさにコーヒーを愛し、コーヒーに愛された変態たち(最大級の褒め言葉です)しか取らない資格である。

ブラックコーヒーが苦手で「なんかかっこいいから」という理由だけでカフェバイトを始めた僕と、まいこさんの時給が同じということを聞いて申し訳なくなったことを覚えている。


ブラックエプロンのまいこさんは、とにかく人格者だった。

僕の働いていた店舗は、そこそこの繁華街の駅ビルの中に入っていたため、行列はあたりまえ。
店長、副店長が常にピリピリしながらバイトにキレているような店舗だったが、まいこさんは常にニコニコ。それでいて仕事が1番できる。

僕のようなコーヒーのコの字も知らないような端くれ者に対しても、優しく丁寧にコーヒーの知識から接客まですべてを教えてくれた。

「一杯のコーヒーが飲み手に届くまでにたくさんの人が関わってるでしょ?生産地とか生産者を知るとね、コーヒーをさらに知れて旨味がより一層増すのよ。
コーヒーは苦手でも、生産地ごとの味の違いは分かっておくといいわよ。」

そんなことを言っていた覚えがある。


まいこさんは、ある日を境に店舗に来なくなった。突然、音信不通になったらしい。

真相はいまだに分からないが、副店長と大喧嘩したとか、旦那さんが借金を抱えて夜逃げしたとかさまざまな憶測を耳にした。

とにかく、一生懸命獲得したブラックエプロンを捨ててまで、店舗を離れなければならない何か重大な出来事があったんだと思う。

まいこさんがいなくなった店舗はなんだか殺伐としていて、そのほかにも僕自身色々な問題があって後を追うようにカフェバイトを辞めた。



「これグアテマラ産でしょ。フルーティーな酸味と花のような香り。間違いない。」
自家焙煎オリジナルの産地を当てようと試みて、正解を探すために辺りを見渡す。


「本日の産地 コロンビア」


たまにコーヒーを飲むと思い出す、カフェバイト時代の記憶。
今日もまいこさんがどこかで笑ってコーヒーを飲んでることを願っている。

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