
夢はなくとも、ビールは旨くなる。
いつ強制終了を言い渡されるかわからないゲームなのであれば、みんなもわたしも笑って、今この瞬間を楽しく。
それはわたしにとって守りたいことのひとつだ。
有るのか保証もされていない未来にゴールを据えるだなんてナンセンスで、すきな人たちと生きられている今日をハッピーに!をお守りみたいにぶら下げて生きてきた。
けれど、だ。
世の中で光が当てられ、つい憧れてしまう「夢を叶えた人」は、漏れなく明確なゴールを持っていた。
当たり前と言えば当たり前なんだけれども、
夢を叶えたのは、夢を持っていたからだった。
ゴールにたどり着いたのは、そのゴールを目指したからたどり着いた。
夢を追った人たちが夢を叶えたのは、奇跡でも、魔法でもない。
そこに意志と、紐づいた行動があったから。 言ってしまえば、そのゴールに向かって逆算してTODOを洗い出して、淡々とこなしている「だけ」でもあった(その「淡々とこなしている」がハードな道のりであることは言うまでもない)。
一方で、だ。
フルマラソンのように大層なゴールは持たずとも、来る日来る日にご対面する関所をひとつひとつクリアして、つどつど自分で書き足して進む旅もまた、それはそれでいとをかし、なのである。
行き先を決めなくとも、旅は楽しい。ガイドブックで恋焦がれた観光スポットよりも、気まぐれでふらりと迷い込んだ路地裏の一瞬がより色濃く記憶に残ることもある。
大きな夢がなくたって、人生さぼってるわけじゃない。
あの頃、「楽ではないけど楽しいって思える仕事がしたいです」と今思えば小っ恥ずかしくうるせー台詞をばらまいてシューカツをしていた。
毎日幸せだなんてとても胸を張って言えないけれど、嬉し涙と悔し涙(ほんとうに泣いてはいない)、半々くらいの日々を「充実」と呼んでもいいんじゃないかと最近思う。「充実」ってこういうことか、とふっと腹落ちする夜がある。
悔しさに溺れそうな日があっても、その先の景色見たさに食らいつく。そうしていると、目印があったわけではないのに突如「あぁ、わたしが欲しいのこれですわ」なんてものに出くわして、アップデードされた理想へと続く道に突っ立ってることもある。
「あなたがいたから」と感謝がポツポツと湧き上がってくるのはとても幸せなことだと思うのです。
「悔しい」「悲しい」「もどかしい」という一見ネガティブな感情も、次へと繋がる燃料にすれば全てひっくるめて「楽しい」になる。
ずっと胸に火を灯した目指したいゴールがあるなら覚悟を決めて旗を立てるのもよし、その道順だって自由でいい。もしゴールがなくたって、目の前の一コマ一コマを進めていけばいい。いつか得も言われぬ景色に出会い、後ろを振り返ったら、「あぁ私はこのルートだったのね」と誇らしく思えるかも知れない。
夢はあってもなくても幸せになれる。
一番の悲劇は、他人の隠れた辛苦を知らずにガワの輝きに目が眩んで、自分の幸せが何かをわかっていないことだと思う。アメリカン・ビューティーのように。
日々はすべて繰り返しで、がんばりたい時・休みたい時、愛したい時・愛されたい時、攻めの時・守りの時、一人でいたい時・誰かといたい時、わたしはわがままだ。
けれど、俯瞰で見ればちっこいハードルを飛び越えたあとに飲むビールの旨さはわたしを裏切らない。
ビールを飲み交わしながらの話って、マッチングアプリで二日連続ドタキャンされただの、将来セックストイショップを開きたいだの、全裸監督のモノマネエンドレスだったり、あるいは「好き」を他の言葉で言い換えるならコンテストだったり、そんなことで大笑いして本当にくだらない。
たったひとりの人生の中でしばしば訪れる、そんな「くだらない時間」こそがわたしの信じたいものだったりするのです。