アラフォー女子が大学で、司書課程を受講してみた。~個人的な成長のハナシ~
年を越してしまったけれど、ようやくこのマガジンのまとめに入ろうと思う。
司書課程を修了して、実利的には
①ネット検索のリテラシー能力が上がった
②図書館の機能が理解でき、情報を利用できる範囲が広がった
③有資格者になったため、働ける可能性が広がった(これに関しては、かなり厳しい現実があるのだけれども)
など、成果があった。
これからは、これからのわたしに与えた影響について書いていきたい。
まず、繰り返しになってしまうかもしれないけれど、度胸がついた。年齢に応じた図々しさとか、開き直りともいう。
先生にはガンガン質問に行ったし(多少相手を選んだが)、ほかの学生さんからどう見られていてもいいや、わたしはわたしなんだから、と思えるようになった。
これはリアル十代だったわたしにはできなかったこと。足枷になっていたことだった。
歳を重ねることにより、一番大事なのは、
「人にどう見られているかではなく、自分がどうしたいか」
ということなんだ、と悟ることができた。
考えてみれば、当たり前なのだけれど。
この枷が外れたことで、わたしはだいぶ生きやすくなった。一生の宝物だ。
あとは、自分できちんとすべての過程を成し遂げたという、達成感。
わたしは、高校を病気で中退してしまい、しかもそれが高3の2学期というもう少しで卒業という時期だったため、大きな挫折感を味わった。
次の年には大検を取得したけれど、たった一科目の受験、しかも目をつぶっていても解けるような内容で、こんなことのために一年間無駄にしてしまったのかという絶望は大きかった。
病気はなかなかよくならなかったため、その後進学した学校も中退してしまい、自分で何かをきっちりやり遂げた実感を得たことが、それまでの人生の中で皆無といってよかった。
本の出版作業は、原稿書きと表紙の選定、校正しか行わなかったため、自分の作品を作っているという感動が薄かった。そのときに関わっていただいた方々や出版社の方々には感謝している。たぶんわたしの感受性がそのときはまだ成熟していなかったのだと思う。
本を作っている過程でも、別の症状が出てきてしまい、それが寝ても覚めても苦しくて仕方なかった。克服には6年ほどかかった。今では恢復に必要な時間だったと思えるようになったけれど、当時はそんなことを考える余裕もなかった。
それらすべての集大成、いわばわたしの子ども時代との遅い決別が、大学卒業、資格課程修了という結果だったのだと思う。
大学という家ではない場に身を置くことで、客観的に自分の状況を見たり、父や母との関係を考えたりできた。また、知らなかった空間のイメージを自分の中で定着できたことは、創作に大変役立った。
人前に出ていくことも怖くなくなった。たくさん本関連のイベントに参加した。作家さんのトークショーやサイン会、図書館が開催する講演会にも足を運んだ。今まで自分を閉じ込めていたぶん、一気に開放してやったのだ。モチベーションやインスピレーションが一気にわいた。人間は動いていないと感性が鈍るのだということが実感できた。
今までの自分は何だったのか。なぜ自分で自分を縛っていたのか。時間は取り戻せないが、取り返しのつかないことばかりでもない。勉強は意欲さえあればいつだってどこだってできる。
わたしは自由を手に入れた。それがすべてだった。
もし、この文章をお読みになっているかたで、引きこもっていたり、ご病気で苦しんでいらっしゃるかたがいらっしゃったら、その苦しみが永遠に続くわけではないと申し上げたい。必ず解決の道は見つかるから、と。
また、学んでみたいことがあるけれどうまくいくかなあと躊躇なさっているかたには、やる気があればなんとかなりますよ、小さな一歩から踏み出してください、と申し上げたい。
だって、わたしがすごく苦しんできたから。それでもなんとかなって、こうしてわずかな自信を得て生きているから。
今はコロナ禍で生きていくのも大変な世の中になってしまい、なかには収入の道が途絶えたり、生活が苦しくなってしまって、必死で明日への道を模索しているかたがたもいらっしゃると思う。
そんなときでも、自分のキャリアまで否定なさらないでいただきたい。
努力して積み上げてきたものがあるからこそ、今日があるのだから。
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