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参考文献はいかにして改作されたか?――法月綸太郎サンプリング編者論1

法月綸太郎氏の綸太郎シリーズ、特に長編について語る前に、やはり彼が「どこからその参考文献を集めてきたのか?」を示しておく。法月氏の作者の言葉と、あとがきはある種、私にとって一種の自殺防御マニュアルになっているため……。


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『雪密室』

 序文の「白い僧院」のくだりから分かるかもしれないが、カー風の謎をクイーン風のロジックで解くという、綸太郎シリーズ一作目。この年代、この辺りで、著者は本当に楽しんでパズラーを書いていたのだと思う。
 二つに分かれたエピローグという実験は一応しているものの、面白みがあまりない。まぁ、その様な表現はここでは置いておくとして、森博嗣がこの作品が好きだという理由も分かる(『森博嗣のミステリィ工作室』より)。
 むしろ、文庫版あとがきに書かれている様に、ピーター・ディキンスンのピブル警視の影響が、法月貞雄警視に与えられているのが大きい(ちなみに筆者は『ガラス箱の蟻』を途中で投げ出してしまっている。
「どんなにつまらない、片々たる作品でも、作者にはひとつの世界を開くもので、自作を語る者はそれゆえ王様のように語らざるをえない。第三者の目には、それが作品の卑小と対象されて滑稽感を生むわけだが、逃れる術はない」(by津町湘二(巽昌章)。


気に入った方はオマージュ元の作品たちも。


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『誰彼』

 一作目がカー風の謎を、クイーン流の推理で解くとするならば、二作目はクイーン風の謎をデクスター的に料理している。デクスターのお抱え探偵役、モース警部がよくやる一人多重解決である。ちなみに氷川透氏や三津田信三氏も同様に、デクスターからの影響を受けた事を、前者は自身のサイトで、後者は対談で明言している。
 さて、そんなわけで、我らが綸太郎はどうだろう? とにかく、推理→新しい手がかりor証言→否定→新しい推理、とこの作品ではこのようにつづく。
 まぁ、よくやったものだと言うことで、作中の綸太郎の推理が何回転したかを数えて見たらなんと、十五回以上!
 筆者も綸太郎と同じく、椅子から転げ落ちた。
 しかも、モース警部のように、探偵役一人だけが推理するのではなく、そこに父親の法月警視や久能刑事ものっかってくるから、とにかくややこしい。
 だが、この作品に置いて、首無し死体と双子+1人の中の真相自体というより、読者が犯人を指摘出来うる過程は実にシンプルだ。頭がおかしくなるくらいミスリードを探偵役が積み重ねる辺りは先にも言った、二人の作家氏にも影響を与えている(と思ってしまう)。
 また、名探偵が間違った推理を連打する等、この当初から所謂「後期クイーン問題」の萌芽が出ている。しかしこの頃はまだ、喜劇的だ。いうならば、アントニイ・バークリーのロジャー・シェリンガムの様な役割にも思えてしまう。本当の悲劇は次作からである。


オマージュ元の作品も。


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『頼子のために』
 ノベルスの著者のあとがき曰く、「ロス・マクドナルドの主題によるニコラス・ブレイク風変奏曲」ということ。所謂、悩める探偵はこの作品のラストから始まる。
 ところで、この本の講談社ノベルス版の「著者の言葉」は本当に面白い。ここで作者は断言するのだ。
『本格は死んだ。クイーンの王国に未来はない(ノー・フューチャー)。(略)くそったれなビジネスだけが我がもの顔でのさばっている』。
 思うに、この作品が作者の転機、と言われようが、結局やりたかった事は、『野獣死すべし』のケアンズの手記を、リュウ・アーチャー風の捜査で、どう解きほぐしていくかになる。元の作品自体も学生時代に書いた中編であり、それを長編に仕立て上げるからこその苦労も垣間見える。
 だが、である。正直、この手記の矛盾を突く点は論理的根拠にも乏しいし、ラストの方で明かされる「真実に覆い隠された事実」も、そんなに上手くいくものか、と言ってしまえばそれまでなのだ。
 しかしパッチワークの上手い、作者のこと、読者にそう「思わせる」のだ。「えぇ、貴方がここまで解く事は百をも承知ですよ」と。
 だからこそラストの【対話】が響く。そして、事実と言う壁に押しつぶされる綸太郎に感情移入してしまった。しかしそれ以上に感情移入するのが、犯人側であり、不幸になっても、ある意味でとても羨ましい終わり方なのだ。
 そう言えば、“家庭の悲劇“と言うラストのカタストロフィだが、法月氏自身が言っているロスマクの影響は、この時はまだ捜査法だけだと思ってしまう。それこそロスマクが生み出したアーチャーが『運命』までの前期は、ヒーローの近い活躍をしていたように、ここでの綸太郎の名探偵像はまだ力のある英雄に思えてしまう(読者の私自身が、前作の『誰彼』の綸太郎像を引きずっているだけかもしれないが)。
 そう、まだなのだ。後期ロスマク的特徴、紙のように薄い存在である“観測者探偵“が見る、パラノイアックな人間関係は、『生首に聞いてみろ』まで待たないといけないのだから。


オマージュ元。



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『ふたたび赤い悪夢』

さて、この作品は注意が必要だ。
 一種、前期綸太郎シリーズの一つの集大成であり、名探偵(とアイドルの)、崩壊と再生の物語である。もちろん、そのためには最低でも『雪密室』『頼子のために』は読んでおいてほしい。両作品の犯人は元よりストーリー的なネタバレもオンパレードなので。
 ノベルス版の著者の言葉だと「大映ドラマ新本格」に挑戦したらしいが、ヒロインの畠中有里奈嬢が、初っ端から事件に巻き込まれる辺り、ウィキにある、大映ドラマ、特に山口百恵の「赤いシリーズ」のお約束を律儀に守っていたりする。
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1,主人公が運命の悪戯に翻弄されながら幸運を手に入れるといういわゆる「シンデレラ・ストーリー」。

2,衝撃的で急速な起伏を繰り返したり、荒唐無稽な展開。
3,「この物語は…」の台詞でオープニングに挿入され、ストーリーの最中では一見冷静な体裁をとりつつ、時に状況をややこしくするナレーション。4,出生の秘密を持つキャラクターの存在。
5,感情表現が強烈で、大げさな台詞。物音を誇張する――――――――――
 上のほとんどに当てはまっているが、ここで重要となるのが、綸太郎パートのエラリイ・クイーン(ここでは作中の記述……というか、ハヤカワ版の方に合わせて置く)の一種の“助言“である。
 特に、タイトルになっている聖書の引用の『十日間の不思議』と、初っ端絶賛休業中の綸太郎が手に取る『九尾の猫』にスポットを当ててみよう。
 『十日間の不思議』は記憶喪失のハワード・ヴァン・ホーンに助けを求められ、エラリイが事件に乗り出す。彼は記憶が無い間に本当に人を殺したのか? という、議題であり、架空の都市ライツヴィルを舞台とした、後期クイーンの代表作でもある。一方『九尾の猫』は、当時としては新しい殺人鬼もの、シリアルキラーに、ライツヴィルで痛いしっぺがしを喰らい、もはや旧世代となった“名探偵“エラリイが挑む。犯人が意図する殺人のミッシングリンクを解いていくう先駆的作品となっているのが、両作品とも、名探偵であったはずのエラリイが痛いしっぺがしを喰らう(そして、何と無関係な死者まで出してしまう)作品だ。
 ここまで言うと分かる人がいるかもしれないが、どちらかというと、再生の意味を持つこの作品より、全てが操られていたという前作、『頼子のために』の方が合っているのである。だが、『九尾の猫』は、ラストのラストでエラリイ自身が、これまた作中のとある人物の“助言“を受け、立ち直る姿が描かれている。
 『ふたたび赤い悪夢』にこれを落とし込めると、アイドルである有里奈が一難去ってまた一難の悲劇を乗り越えていく姿に、自分を重ね合わせ、時に父親の警視に、時に旧友でバンドをしている久保寺容子嬢に、そして時に有里奈自身に(あともっと言うと、ジョン・レノンと島倉千代子にも(笑))励まされ、再生していくのだ。
 そして美しいエピローグ、前作のとある人物の現在も明らかになり、再生した名探偵の姿がそこにある。皮肉にもその姿は“神“の座から引きずりおろされた“人“として……。



オマージュ元の作品たち。


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