中村屋の思い出4
先代勘三郎さんの23回忌の追善の舞台で、久しぶりに、当代勘三郎さんの「高つき」、下駄のタップダンスを見た。
「高つき」というのは昭和8年に6代目菊五郎が下駄でタップダンスを踊りたいと言い出して、できた演目だそうだ。なんと御茶目なひとだろう。
この6代目さんは太っていたので少しでも細く見えるように縦が少し長い格子柄を考案したひとだ。
身長が大きく見えるようにセットを小さくしたとか、しなかったとか・・・そんなこんなの笑みの浮かぶエピソードの持ち主だとものの本に書いてあった。
さてもそのタップダンスを先代の勘三郎さんが
戦後復活させて、当代がそれを受け継ぐこととなる。
全編、まことに愉快。その技、あっぱれ。
「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ)
は、まことに切ない物語だ。
顔に疱瘡の跡のある田舎ものが吉原で花魁を見染めて、通いつめて見受けまで話が進んだのに「お前の顔をみるのが嫌なのさ」と愛想づかしされてしまう。それには他の男の存在があるのだが、それを聞いてショックを受けやがて男は・・・というような筋書きで、田舎者が勘三郎だった。
2階席の2列目25番からでも見て取れたその表情の動きが素晴らしい。
普通の顔からすっと眉がひそめられ、瞳が細くなり、切なさがにじんでくる。そこから何かしら決意したように硬い酷薄な顔つきになっていく。
大仰なのではない。相手の台詞が語られる間に、気持ちの動くままに表情が少しずつ変化する。
様式美の中に生身の人間の感情が光る。勘三郎さんの芝居はいつも人間臭い。
それにしても、玉三郎さんの花魁は美しい。情の温かさとは対極の冷たさがよく似合う。
勘三郎さんの長男の勘太郎くんの芝居はいよいよ父親に似てきて、驚く。口伝の強みか、とも思うが素直な資質なのだろうという気もする。団十郎さんと海老蔵さんの親子とはずいぶん違うなあと思う。
先代の勘三郎さんの言葉にこういうのがあるそうだ。
「6代目菊五郎をどんなに敬愛していても6代目は6代目、中村勘三郎は中村勘三郎と割り切るものがなかったら役者なんてやっていけませんよ」
自分は自分。どんな役者もそう思う日がくるんだろうな。
それは役者だけでなく仰ぎ見る存在を意識した時
ひとはそんなふうに何度でも自分に言い聞かせるに違いない。
読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️