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ざつぼくりん 3 「銀杏」
絹子はときどき道に迷う。もういい大人なのに迷子になってしまう。
地図を手にしながら行き先までたどり着けない絹子を見て、その迷い方はむしろ才能と言うべきかもしれないと時生は言う。
そんなときの時生の顔は若いくせにちょっと分別くさいなと絹子は思う。そして自分が道に迷うのは、なにかしらひとならぬものに呼ばれてしまうからだとこっそり思ってもいる。
時生が生まれ育った小さな海辺の町でふたりいっしょに住み始めて一年目のこと。タチアオイが咲く夏の日の昼下がり、買い物帰りにいつも通る道の見慣れた家並みが、陽炎にとけるように揺らぎはじめた。
歩くほどにあたりはよそよそしい顔つきになっていった。そしてなおも続く細い道の先に、いきなりこれまで目にしたことのない真っ赤な鳥居が現れた。
その鳥居、いささかサイズは小さいがぼってりと塗りなおした感がある。どうやら稲荷神社らしい。社務所も本殿も悲しいくらいにこじんまりとしていて、しんと静まり返っている。
日差しにいよいよ色を濃くする鳥居をくぐり、夏草が繁茂する境内に入っていくと、赤いよだれかけをかけた石のキツネが笑っていた。
それをみて、ほほう、そういうわけですか、と絹子は合点する。自分を呼んだ主はさびしがりやで、絹子の訪れを待ちかねていたのだ。そうだ、きっと絹子だけを待っていたのだ。
ああ、いじらしい、と絹子は思う。あたりには誰もいなかったので、石のキツネの胸元にそっと触れてみた。トクンと鼓動が手を打ったような気がした。
もう、この町のどこもかしこも知り尽くしていると思うようになった次の年のこと。桜にはまだ早い春の日に、街の写真を撮ろうと思ってデジタルカメラを持ってひとり散歩に出かけると、風が急に強く吹き始めた。
しゃわしゃわしゃわという乾いた音が耳に届いた。音符でいうと十六分音符のように急いだ音が、道沿いのブロック塀のあたりから聞こえた。
見上げるとそこには白木蓮が今を盛りに咲いていて、風が吹くたびに大きな花びらをこすり合わせるように揺らしていた。
おや、まだ桜も咲かないのにもう白木蓮だなんて、と訝しく思いながら、絹子はその優美な花びらをデジカメに収めた。
そのまま誘われるように踏み込んだ見慣れぬ道の先に鳥居があった。かつては鮮やかであっただろう朱が褪せ、その下にのぞく木の地肌に無数の傷をもつ古びた鳥居だ。絹子はまた呼ばれたのだと思う。
鳥居の横には薪を背負った二宮金次郎の像があった。この金次郎は生真面目な顔で本を読んでいるか、光の当たりかげんのせいか、ちょっと飽き飽きしているようにも見える。謹厳実直は時に退屈だ。絹子はちょっとわきの下でもくすぐってやりたくなる。
その左手に作り物の龍がいる。らんらんと光る目にはガラスがはいっているらしい。ちょろりとカールしたひげがかわいい。
ぐわあと開いた大きな口からちょろちょろと細く水を流していた。こちらを威嚇する迫力のある顔つきだが、ほら見てみな、と威張っているようにも感じる。絹子はよしよしと顎の下を撫でてみた。地の底から満足げなため息が聞こえたと思った。
龍は水神の使いなのだと説明があった。海で働く人たちを守っているのだ。水音を聞きながら、養護学校で働く時生のことも守ってやってくださいと手を合わせた。
そこからまたくねくねとした道が続いていた。だんだん絹子は落ち着かなくなっていった。
誰かが自分の歩く姿を見つめているような気がしてならない。どこか高いところからなにものかの視線が真直ぐ落ちてきて、自分に刺し貫いているような感じなのだ。
首筋に手を当てながら絹子は空を見あげた。春の空は淡い水色で、それは高貴な姫さまのうすもののかぶりものを連想させた。気持ちのよい手触りがしそうな空だ。
と、絹子を見つめる視線のもととおぼしきあたりに無数の黒い血管が虚空を走っているのが見えた。その血管のはじまりは大きな寺の塀のむこうにあった。
目を凝らし、見直すとだんだん正体がわかってきた。とてつもなく大きな木だ。ああ、絵空事のように大きい。そう思うとこめかみのあたりの血管が跳ねるような気がした。自然に足が寺の方に向いていた。
門をくぐるとその全貌が目に飛び込んでくる。巨大だ。そばに立て札があり、銀杏の木だと教えている。幹の太さは大人三人が手を繋いだ分くらいはあり、高さは見当もつかない。
でかい。でかい。思わず声をあげる。どうにも圧倒されてしまう。おそるおそるごつごつとした木肌に触れてみると、冷え固まった溶岩に触れたときのような感触が掌に残る。まるで生きている岩だ。
幹は途中でふたつに大きく分かれ、何かの意志を持っているかのように、おびただしい数の枝を触手のように天に向かって突き上げている。
幹の太い部分から細長い瘤のようなものがいくつも垂れ下がっている。それは老人の撚れたあごひげのようにも老女の垂れた乳のようにも見えた。
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