2023年となる。
またあたらしい年の始まりだ。68回目のお正月だ。あー、ずいぶん長く生きてきたなと思う。
年賀状の一枚に、書いてますか?という一行があった。なんとなく、ズシンときた。
エッセイの教室で机を並べてたひとの言葉だ。このかたは旅行記を発行されたりして、書くことを続けておられる。
あたしはどうだ?
書くこと、と構えたものは書いてはいない。備忘録のように、その日こころにひつかかったものがあったら、書き残しているだけだな、と苦笑する。
原稿用紙に手書きの文字を埋めることを書くことというのだとしたら、そこからはずいぶん遠い日々だ。段階的にワープロがあり、パソコンがあり、今はスマホの文字盤のうえで、こっくりさんのように指を滑らせている、これを書くことといっていいのかな。
まあ、書くことというのは、思いを文章にすることであり、文学とな文芸とかを執筆するという意味合いで使われているのだ。
ただただ流れ過ぎていく時間を、自分自身の感性で受け止めて、その意味や味わいを文字表現してとどめておくこと。それが「書くこと」のベースだ。
日々の時間の何を掬い上げ、何を捨て去るのか、何に心動かし、そこからなにを感じ取るのか。
その原石のような出来事の文字表現をいかに磨くかを修業するのがエッセイ教室だった。
読み手を意識して書くこと。伝わりやすい文章で、誤解されぬよう気配りして、しかも、ありきたりでなく、ひとりよがりでなく、興味深い内容であること、そんな至難の技が教室での努力目標となるわけだ。
嫌いじゃないから、続けて通ったし、素振りのようにたくさんのエッセイを書いた。真面目に。
赤ペンがはいることもあったし、褒められることもあった。教室内のひとは数少ない読者だったが、褒めてもらうと嬉しかった。
今も日々の投網に引っかかったものを掴み上げて考察し文章化して、ネットにあげているが、だんだんその頻度がさがってきている。
心弾みがなければ、良い文章は生み出せないのかもしれない。68歳のここのところの日々は、やらねばならぬことに追いまくられて、いささか単調に過ぎている。
そこのところをなんとかせんといかんと思ってはいる。文袋の仕事と家事だけで1日は終わる。なにもワクワクしない日が重なる。
「ずっとわくわくできる年寄りでありたい」
これが今年の願いだ。
そして、古希を迎える頃に「書くこと」を形にしたいと思ったりしている。どうなりますやら、だが。