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筋肉

顔見世興行で「新薄雪物語」を見たときのこと。


今は亡き12代目市川団十郎が団九郎という悪党の役で舞台に立った。悪党らしく憎憎しげな顔つきで着物のすそをからげ上げていた。

この日はずいぶんと気前よくからげ上げたもので、団十郎の腿の半分くらいまで、二階席からでもはっきり見て取れた。

ドーランも塗られていない生足である。そこにはくっきりと大きな筋肉が盛り上がっていた。ああ、これが荒業、弁慶の飛び六法をする足なのだと思った。

以前見た「文七元結」の時の尾上菊五郎の足も同じように、思いがけず大きな筋肉がついていたなと思い出す。

女形もこなす菊五郎が腰を落とし、腿をつけて内股の姿勢を続けてきたのだと思えば、その筋肉のつきように納得する。

丈高いおとこがおんなになる試練のように体を撓める。そこには凝縮したちからがこもっている。
 
そう気がついて、しりからげした若い役者さんの足に目を向けると、どの足にも実にしっかりとした筋肉がついている。トンボをきり、宙返りをしてみせる彼らの足は、まるでアスリートのそれであった。

役者が見得を切る、歌舞伎はその形でみせる。それは静ではあるのだが、静でありつづけるためには大きなエネルギーが必要である。
 
大きく足を開き、腕を突き上げ、眼力険しく顔を作り、おのが体躯を客席に放り出すようにして体重を移動させ、ぴたりと止まる。

ただそこにそうしているためだけに必要な猛烈なちから。その形を得るためにとれだけの修練があったろうかと思う。役者の足にある筋肉はそのみちのりのみちしるべなのだ。
 
歌舞伎役者たちは自分の姿形が、舞台でもっともはえるたったひとつの形を求めて、なんどもなんども稽古に励むにちがいない。手はどこまであげるのか、首はどんな角度でかしげるのか、そして、足は・・・。
 
肉体はやがて衰える。無理を重ねた体が痛む日もくるだろう。特に膝を傷める役者さんが多いように思う。

実際晩年の羽左衛門さんは正座ができなかった。正座の場面では黒子がさりげなく椅子を運んできていた。それでも、羽左衛門さんの存在感、魂こめた演技が肌に迫ってきたのは、数えきれないほど明け暮れた稽古の日々の果てにしか得られないもの、身につけた筋肉がくれた自信ではなかったかと思う。

お芝居の筋からはずれたところで、にわか歌舞伎かぶれのあたしが、わかったようなわからんようなことに考えをめぐらせていた。それもまた楽しいのだ。

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