そんな日の東京アーカイブ 荒川遊園地
2006年12月22日のことでした。息子1といっしょに都電荒川線に乗ろうと決めていた日でした。
なんでもない日になんでもない風景を彼といっしょにながめながら、今年一年を振り返ってみたかったからでした。
ゆったりと町中を走る電車は郷愁を誘います。えのでん、らんでん、とでん。暮らしのなかにしっくり溶け込んで日々をまっとうする小さな電車は、長く人生を送ってきたひとたちの吐息をのせて走ります。
うまくいかないことをたくさん抱えて、うまく生きられない日を送る息子1とならんでちいさな電車のつり革を握りながら、いろいろあった今年を振り返っていました。
都電荒川線の王子駅から三ノ輪口に向かいました。途中に荒川遊園地という駅がありました。
降りよう、と息子を誘いました。「本気なの?」と息子は問いました。母は本気でした。
降りてみると平日の遊園地は閑散としていました。こどもの歓声のきこえない遊園地は、おとなの深いため息ばかりが聞こえるようでした。
小さな木に施された安っぽいクリスマスオーナメントが物悲しさを助長するのでした。
そんな景色はわたしと息子の冬の遠足にはなんだかふさわしいような気もしていました。生きることの厳しさを突きつけられて、これまでの人生がいったいなんのためだったのかと、絶望の淵をめぐるような思いを抱いた一年でした。
しかしそれは同時に未来に向けて、腹を括るための一年だったのかもしれません。息子と向かい合って、しっかり彼を見つめるための時間だったのかもしれません。
人気のない園内を歩きながら彼の言葉を聞きました。遠い日に理解のない母であったことへの後悔がじりじりと足元から立ち上がってくる寒気のようにこころを冷たくするのでした。
幼い彼の風変わりな物思いは、若い母であった私には理解できなかったし、そんなことは思わないほうがしあわせであると思えたのでした。
彼が彼であることを丸ごと認めるまで、なんて回り道をしたのだろうと後悔がわいてくるのでした。
だれも訪れない冬の遊園地のようなさびしい人生ではなく、どこにもいかないメリーゴーランドような人生でもなく、ただ見つめるだけの観覧車のような人生でもなく、なんて消去法の願いばかりを彼に押し付けていたのではないかと思えてくるのでした。
ガタンゴトンとたくさんの駅に止まってゆったり走る小さな電車に揺られながら、この電車のように彼もわたしも誰とくらべるでもない自分なりの路線を、いけるところまでいっしょに走っていけばいけばいいんじゃないかな、なんて、そんなことを確認した一日だったように思います。