ふびんや 35「枇杷屋敷 Ⅴ」
「そうこうするうちにご主人が脳梗塞で亡くなっちゃったのよ。そりゃあ、年も年だったけど、やっぱり、いろいろ気に病むことが多かったんじゃないかしらね。
そのあと、奥さんがえらく気落ちしてね。康夫ちゃんのこと、どうしていいか、わかんなかったんでしょうね。自殺じゃなくて不慮の事故ってことになってるけど、なんか不自然な亡くなり方をしたみたいだったわね」
温厚な父親は税金の申告書を書いているときに倒れた。机に突っ伏した後ろ姿を、妻は居眠りしているものと勘違いし、そのままにしておいた。数多くの紳士服を仕立てた父親は自分の跡継ぎを仕立てあげそこねて、この世を去った。
その後、母親は自分の不明を悔いた。あの時気づいていたらと、何度も同じ光景を思い描くのだった。その光景は日常のなかにも幻のように現れ、歩道橋の階段でそれを見た母親は、その背中に近寄ろうとして思わず足を踏み外した。頭からもんどりうって転げ落ちた母親は、一人息子の康夫と数え切れないほどの植木鉢を遺して、夫の元へ旅立った。
「ひとり遺された康夫ちゃんはほんとにうろたえたみたいね。なにをして生きていけばいいのか、わからなかったんでしょうね」
律義者の両親が遺したわずかな蓄えが減っていくのと裏腹に、枇杷の木を筆頭に、みどりは季節を越え、度を越して成長していった。植木鉢から這い出たツタはやがて壁を伝い、侵食するように家を包み始めた。
家の内外にあふれかえるみどりのなかで康夫の暮らしは支えを失った苗木のようにバランスを失っていった。康夫はどんな日にも儀式のように欠かさずたっぷり水遣りをした。その姿は道行くひとに目撃されていた。
「かわいそうなんだけどさ、康夫ちゃんにとっては、植木鉢が死んだおかあさんの変わりだったんじゃないかって気がするの。ほかに確かなものがなにもないんだもん……。けど、水遣りしたあと、康夫ちゃん、家を出てたのよ。なにしろ出て行かないと、部屋の中がみどりでいっぱいで息苦しくてならなかったと思うわよ」
暑くても寒くても、康夫は大股で歩き回った。自分の足先を見つめながら、路地から路地へ当てなく歩いた。いや、当てはあるように見えた。康夫はお地蔵さんに参るように、家々のみどりを訪ねては、祈っていた。
「どこへいくのかわかんないんだけど、この近所まわり歩きまわったの。歩きながら絶えず何かしらブツブツ呟いていたみたい。見えないお母さんと話してたのかもしれないわね」
抱え込んだ不安に内側から蝕まれたのか、康夫は次第に精神を病んでいった。ねめつけるようなその視線と落ち着きのないしぐさで傍目にも異常は知れた。
「康夫ちゃんたら町内のよその家の軒下の植木鉢に向って頭を下げてたりしたわね。でも、黙って門から入っていったりするもんだから、不審者扱いされて、警察を呼ばれたこともあったのよ」
家を出るとすぐさま頭のなかの誰かが「止まってはいけない」という。だから、ずっとずっと歩いていた。ただ、みどりに呼び止められたときは、それがどこであろうと止まらなければならない。そこで、頭を垂れてその木のために祈らなければならないんだ。僕がそうしないとかあさんが悲しむんだ。康夫は警官にそんなことを話したらしい。
「さすがに警察もヘンだって思ったらしくて、施設に入れようとしたんだけど、康夫ちゃんはあの家にこだわってね、どうやったのかわからないけど、注意だけ受けて、帰ってきたのよ。それが今年の夏のことだったのよ」
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