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よそさん
心理学で県民性を習った時、京都人は疑り深く、対他志向だといっていた。
長く京都を離れて住み、再び京都人の仲間になってみると、その感じが、よくわかる。
お使い途中で出逢うおばあさんたちの「どこのどなたはんどす?」的視線はまさに、おまえは怪しい人ではないのか、という疑りの視線かもしれないし、容易に打ち解けない雰囲気もまたそうなのだろう。
対他志向というのは、他人からどう思われるのかが価値基準になるのだと教わったような気がする。
よそさんに嗤われまっせ
京都の子はそう言われて育つ。嗤われないように努力せねばならないのだ、と。
注意をされるということは、そういうことがあるということだ。
かつてベルサイユ宮殿には、「庭で排泄をしてはいけない」という注意書きがあったとか。そうするひとかいるから、注意書きがあるのだと。
つまり、京都人は他人を嗤うから、自分は嗤われないようにせねば、と思うのではないか。
では、なぜ、他人を嗤うのか。
木曾義仲が京都に来て嗤われたのは、田舎者だったから、とか。
田舎者を嗤うのは自分はそうではなく、あきらかな境界線を引くことだ。
その境界線こそが京都に、しかも洛中に生まれ育ったという事実から生まれるプライドなのだろう。
他府県で京都出身者同士が出会うと、どこですか?と聞き合う。詐称することもあるかもしれないので、小中学校の名前を尋ねる。学区が証する土地柄がある。
旅先で京都出身と聞いて、どこと尋ねたら「むこうまち」と言われて、思わず「そこは京都やない」と言ってしまったというひとがいた。
その線の引き方、感覚が洛中人のプライドだ。
洛中のなかでもその線は存在する。
中、上、下が京都や。下はちょっと欠けるけどな。
中京、上京、下京(一部を除く)それが京都オブ京都だと。
で、そのなかでまた、背比べがあるわけだ。
なんかこんなことを考えるだけで、疲れてしまう。こんなプライドヒエラルキーは付き合いきれんな、と思う。頭、禿げちゃうよ。
入り人は永遠に近いくらい入り人らしいから、まあ、死ぬまで入り人として暮らすのがいいんだろうな。sigh.
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