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ざつぼくりん 16「ダンゴムシの避難訓練Ⅰ」
秋雨が降り続いている。音もなく降る細かな雨は時間をかけて海辺の小さな町を濡らしていく。大きな通りも小さな路地も、鳥居も銀杏も、木戸も運河に浮かぶ船も、ひっそりとその洗礼を受けている。
「秋の雨って、つらそうに降るのね」
窓際で腕組みをした華子が独り言のように言う。空を見上げる小さな後姿は薄い影をまとい、その輪郭が雨ににじむ。
絹子がゆっくりとその横に立ち、白いブラウスに包まれた痩せた肩に手を回すと、華子はくたりと体を寄せる。以前はこねこのように弾んでいた華子の体にその手ごたえがない。
「そうかしら? 穏やかな気持ちで、安心して降ってるようにみえるけど」
明るい声で絹子が答える。
「そうかなあ。なんか静かに泣いてるみたいな感じがする」
「華子は詩人ね」
「そんなんじゃないもん」
末娘の華子がうまく食事できなくなってるの、と絹子の長姉が相談してきた。年の離れた妹である絹子に、というより養護学校の教師をしている時生の意見を聞きたがった。
十歳の華子はもともと食が細いほうだったが、ここ一カ月ほど、食事らしい食事を摂っていないらしい。給食があるからか、学校へも行きたがらないのだという。
とりあえずうちに遊びにこさせてください、と時生は言った。
「プリン作ったのよ。食べない?」
「うーん、どうしようかな」
「わたしは食べるわ。だって三人分もりもり食べなきゃならないんだもの」
ふふ、とちからなく華子が笑う。小さなえくぼが唇の脇にできる。そのえくぼが窪みのように見える。顔色があまりよくないのも気になる。
絹子がテーブルにつくと華子もついてくる。自分の前に置かれた白い皿に盛られたプリンをしげしげと華子が見つめる。
「あ、気がついた? ちょっとカラメル焦がしすぎちゃった。残念」
「うううん、すごくきれいな黄色だなって思って」
「そう、ありがと。たまごがいいのよ。有精卵。ちょっとお高いのよ」
ふーん、と言いながら華子はスプーンを手にするが、決して食べようとはしない。おかまいなしに絹子は食べ始める。
うちでしばらくゆっくりさせてあげればいい。いろんなことを無理強いしちゃいけないよ、と時生が釘を刺した。
「わたしの分……、それからふたごのおねえちゃんの分……いもうとの分……」
絹子はおどけながらプリンを口にする。その様子を華子がうかがっているのがわかる。
「ふたごちゃんの名前まだ決まらないの?」
「うん。色々考えてもういくつか候補はあるんだけど、やっぱり顔立ち見てからでないとって時生さんがいうの」
「顔で決めるの?」
「そう、可愛すぎる名前がかなしいことだってあるからって」
「ふーん。ね、絹子さん、ふたごがおなかのなかにいるってどんな感じ?」
華子は絹子のことを「叔母さん」ではなく名前で呼ぶ。時生もこともそうだ。
それは年の離れた兄姉と両親と祖母、おとなばかりのなかで暮らす華子のそれなりの背伸びだろう。絹子自身がそうであったように、そんなふうにして、まわりとの距離の取り方を華子なりに会得してきたのだろう。
「うーん、シアワセな感じよ。つわりはけっこうたいへんなんだけど、三人でいっしょに生きてるって感じ。そんなの今しかできないことでしょう?」
その言葉にうそはない。が、そればかりでもない。
「ふーん。でも、いろんなこと心配にならない?」
食べもしないプリンを崩しながら華子が聞く。何日かをずっといっしょに過ごした華子は、絹子の身のうちにある不安をそれとなく感じ取っているようだ。
確かに産み月が近くなって腰が痛むし、夜中に目が覚めて胸のあたりがつかえて息が苦しくなることも多くなった。浮腫みもすこしある。
ひとつの背骨、ひとつの心臓をみっつのいのちが共有しているのだとせつなく実感し、今の自分の濃密な生におののく夜がある。
いつもより早く打つ鼓動のリズムを身のうちに感じながら、そのいのちの未来は未熟な自分には重すぎる負荷なのではないかと思い、じわじわとこころが萎縮していく夜もある。
「ならなくもないわよ。はじめてのことっていつでもそうだもの。……でもわたしひとりじゃないから。時生さんがいるから」
不安な夜は、傍らに眠る時生の手を取る。時生の手にはたくさんの傷跡がある。養護学校の生徒たちの言葉にならない思いをそんなかたちで受け取ることがあるのだという。
「ほら、アニメでおびえたキツネリスが噛み付くシーンがあっただろう? あれと同じなんだ。いつかこれがぼくの勲章になるとおもうよ」
と時生は笑って言った。
その手をおなかに乗せる。そして時生の深く静かな寝息のリズムに合わせて呼吸ずる。すると自分もふたごも時生の健全な呼吸と同じリズムで生きているような、その脈拍の力強いリズムに守られているような気がして、気持ちが楽になる。
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