そんな日のアーカイブ 6 2003年の作家 半藤一利
半藤さんは夏目漱石の義理の孫である。漱石の長女筆子さんの娘さんと結婚して夏目一族のひととなった。
世の中にはそういうひともいる。知り合いに田沼意次の直系のひとの嫁さんがいた。日常はどうってことないけど、そういう直系の会というのがあって武田だの上杉だの歴史上の有名人の名が並んでいてそれはなかなかおもしろいものよ、とか言っていた。
そこに生まれつくことは選べないが、そういうひとと添うことは意思が必要かなとも思う。
半藤さんが「うちのばあさんが」と言うとき、それは筆子さんのことでありその筆子さんの口から語られた漱石の日常を聞くと、なんとなくおもはゆい。
菊池寛の不評を買ったという漱石の墓は雑司が谷霊園にあり、おなじ霊園に永井荷風の墓もある。夏目家の墓参りのあと、半籐さんはかならず荷風さんの墓に立ち寄るのだそうだ。文学史を辿るような墓まいりもある。
ちなみに雑司が谷霊園にはジョン万次郎や小泉八雲や泉鏡花や竹久夢二や島村抱月や金田一京助の墓があり、東郷青児や羽仁もと子やサトーイチローやいずみたくの墓もあるのだそうだ。
というわけで、わざわざ荷風風の丸眼鏡をかけてきて風貌まで似せて、半籐さんはここで「荷風さんの戦後」を語った。
大正天皇とおないどしの荷風さんは「日本にいながら日本の亡命者であり、日本社会と絶縁していた」と半籐さんは話しはじめる。
昭和二十年三月十日の東京大空襲からはじまり
三回空襲で焼け出され、二回は九死に一生を得た荷風さんは「空襲で死んだら死骸を捨ててくれ」というような野ざらしの心境になっていたという。
なんとか死なないではすんだが、日本に愛想を尽かしている荷風さんは、新しい日本に愛情を持てず、しばらく蟄居の時代が続いた。
荷風さんは若い時代に洋行したりしたハイカラなひとであるが、実は継承してきた江戸文化・日本文化をこよなく愛していた。戦後日本にあるのは解放ではなく、文化国家の建設でもなく
亡国でしかない、という認識をもっていた。
そんな荷風さんが戦争前の如しという場所を見つける。それが浅草だった。そこから荷風さんの浅草通いが始まったのだそうだ。
そういえば、吉行淳之介さんがそんな荷風さんの私娼窟通いについてこう書いている。
脂粉の巷を描くことは、荷風の現実脱出の心情にもつながるのである。脂粉の巷に対して感じる、気質的なロマンティックな心持。それと同時に、過去の、日本というものを感じさせる風物のたいする愛好。それがロマンティスト荷風を脂粉の巷に結びつけるものであったわけだ。
全く、荷風の日本的風物愛好は徹底している。
「濹東綺譚」の甚だ多くの部分は、叙情的に、舐めるように風景を唱いあげていることに、いまさらのよう驚かされる
昭和二十三年に荷風さんは、自分はもはや生きている荷風ではなく形骸となった荷風であると思った。生きていながら生きていない決意をした。小説や日記はきちんと書かれていたが、それは淡々とただ起こったことを文字にしてあるだけであった。
そこに昔の荷風さんはいなかった。ただ生きて、死ぬのを待っていた。野ざらしの覚悟で戦後を過ごされたのだ、と半藤さんはすこししゃがれた声でしめくくった。
そういえば、荷風さんの「見果てぬ夢」という作品にこんな一節がある。
彼は真っ白だと称する壁の土に汚い種々な汚点を見出すよりも、投げ捨てられた襤褸の片に美しい縫い取りを発見して喜ぶのだ。正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞が落ちているのと同じく悪徳の谷底には美しい人情の花と香しい涙の果実が却って沢山に摘み集められる。
わたしは荷風さんの本もわずかしか読んでいないのだが、この言葉はこころに響く。荷風さんは「世の中気に入らないことだらけ。東京を嫌悪し、江戸と色街を愛した文豪」と評されたりしているが、この美意識は叙情詩人のようだ。
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Wikipediaより
半藤 一利(はんどう かずとし 1930年(昭和5年)5月21日 - )は、日本のジャーナリスト、戦史研究家、作家。近現代史、特に昭和史に関し人物論・史論を、対談・座談も含め多く刊行している。
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2003年7/28〜8/2まで、東京・有楽町よみうりホールで開かれた日本近代文学館主催の公開講座「第40回夏の文学教室」に参加し「『東京』をめぐる物語」というテーマで、18人の名高い講師の語りを聞きました。
関礼子・古井由吉・高橋源一郎
佐藤忠男・久世光彦・逢坂剛
半藤一利・今橋映子・島田雅彦
長部日出男・ねじめ正一・伊集院静
浅田次郎・堀江敏幸・藤田宣永
藤原伊織・川本三郎・荒川洋治
という豪華キャスト!であります。
そして17年が経つともはや鬼籍に入られたかたもおられ、懐かしさと寂しさが交錯します。
その会場での記憶をあたしなりのアーカイブとして残しておきます。