ラルフのためいき 3「ラルフⅢ」
ここんちの長男の巧くんは、たぶんめんどくさかったんだろうな、今のなよこさんみたいに公園で、散歩ひもをはずしてくれたんだ。ま、最初のうちはオイラもおとなしくここに帰ってさ。それで安心したらしくて、何度目かになると巧くんはひもをはずすと、ベンチで本を読み始めたんだ。
それを見てから、オイラは逃げたんだ。世田谷の奥沢から鵠沼までね。うそじゃない。帰巣本能ってのかがあるんだよ。ていうか、道でどっちに行こうかなって思うと朱鷺さんの声が「こっちよ」って教えてくれたんだよ。ほんとだよ。朱鷺さん、ずっとオイラのこと思っててくれたからなんだよ。
でも、その道のりは楽ではなかったさ。車が多くてさ、オイラの目線だとタイヤしかみえないからね。危険なんだよ。おなかはすくし、咽喉は渇くし、へんな草の種はくっつくし、雨は降るし、子供は追っかけてくるし、おばさんは邪険にするし……。それだけで映画の一本もできそうだよ。「錬三郎の試練」って感じでさ。RPGにしても経験値のあがる逃避行だったさ。
ま、オイラとしてはあんまりおもいだしたくないんだけどね。思い出すたびにため息がでちゃうんだよ。でも見慣れた風景になると心が躍った。空気とか匂いがちがうんだよ。朱鷺さんに会えるって思うからさ、走り出しちゃったよ。
で、鵠沼の家の前で、オイラが「ただいま」って吠えたら寝巻き姿の朱鷺さんがとびだしてきてくれたんだ。着いたのが明け方だったんだけど、朱鷺さん、オイラの声がわかったんだよな。うれしかったな。
「錬ちゃーん。帰ってきてくれたのー。夢見てるみたいー。夢じゃないわよね」
オイラを抱いて朱鷺さん何度も何度もそう言った。泣いてたよ。やっぱり逃げ出してよかったって思ったよ。じいさんも起きだしてきて、さすがに最初はびっくりしてたけど、最後には普段の自分の仕込みかたがよかったからだ、なんて自慢してたな。じいさんのためにだったら帰ってこなかったかもしれないな。
あのさ、さびしいこころがひとをだめにしちゃうことってあるんだよ。オイラがいない間の朱鷺さんはそんなわけで寝込んでたんだってさ。大事な娘を嫁にして、オイラまでも連れてってしまうなんて酷い、ってセンセイに腹立てて、ちょっとふてくされてたんじゃないかな。そこんとこをじいさんがわかってないからなあ……。もうちょっとじいさんが歩み寄って、朱鷺さんの話を聞いてあげればいいのかもしれないけど、元警察官はそこいらが不器用なんだよな。
感激の対面のあと、朱鷺さんたら「まー、錬ちゃんたらきたなくなっちゃって。おとこまえがだいなしよ。さあさ、おふろおふろ」なんてうれしそうに言い出すんだ。
たしかに道中いろいろあってよごれちゃったんだけど、ひとやすみする間もなくおふろときたもんだから、まいっちゃったよ。風呂場で石鹸まみれになって、シャワーかけてもらって、なんだかくすぐったかったけど、朱鷺さんは上機嫌で「あらあらこんな種つけちゃって、いったいどんな道を走ってきたんでしょうねえ、れんちゃんはー」って聞くんだ。オイラ、そんな質問には知らん顔して、もうおしまいってつもりで、ふるふるふるって頭をふってやったんだ。そしたら朱鷺さん、「ひやあ」なんて子供みたいな声だしてた。
そのあと、朱鷺さんが、なんで一番に「おふろ」っていったかわかったんだ。オイラは「そといぬ」だからさ、ずっと庭の犬小屋暮らしだったんだけど、朱鷺さんはオイラをきれいにして「いえいぬ」にしようとしたんだ。
それが証拠にダイニングのテーブルのしたで朝ごはんを食べたあとずっと、朱鷺さんたらオイラのこと抱えたまま離さないんだ。猫みたいに膝のうえにのっけてオイラのこと撫でたりほおずりしたりするんだ。
その時、オイラ、自分の居場所はここなんだって思った。きいっちゃんがオイラのことをすきになってくれるのはありがたいけど、きいっちゃんのまわりにはきいっちゃんをたいせつに思うひとがたくさんいて、あっちはオイラがいなくても大丈夫だ。かえってオイラがいることで、きいっちゃんが松林につれてかれたことをおもいだすんじゃないかなって思うくらいだ。
そりゃあじいさんだって朱鷺さんのこと大事におもってるかもしれないけど、娘さんがいなくなったかわりにはなれないもんな。オイラを撫でたりさすったりして、食事の面倒をみたりすることで、朱鷺さん自身が自分の居場所に確認をしていたんだと思うよ。
じいさんもすこしずつそこんとこを分かってきて、オイラを迎えにきたセンセイに「これがいないとどうもばあさんが寂しがって寝込んでしまうもんだから、すまんが、こっちに置いてやってくれんかね」なんて頼んでたさ。
それを聞いてセンセイは朱鷺さんに謝ってたよ。すごく申し訳なさそうな顔してたな。朱鷺さん、だまって聞いてたな。ほんとはイヤミのひとつでも言ってやりたかったんだろうなって思うよ。
一方、センセイはオイラが世田谷の入れから鵠沼までちゃんと帰れたことにすっごく感心して、そのことを繰り返し言うんだ。
「それにしても、錬三郎くんはすごいですねえ。うちからここまで帰ってくるなんて。映画みたいなおはなしだ。きっと、お義父さんの調教でしょうね。素晴らしい。ほんとに素敵な犬だなあ、錬三郎くんは」
センセイはじいさんがオイラに警察犬みたいな訓練してるって思い込んでたけど、じいさんに仕込まれたのは、探し物をすることだけさ。
「いや、錬三郎は、ばあさんのことが心配だったんだろうよ」ってじいさん、はっきり言ったんだ。それでそのときはオイラ、じいさんのこと許してやろうって思ったんだ。わかってればいいんだって。
「そうでしたか……。ぼくも喜市も錬三郎くんがいなくなって、なんだかさびしいんですが……今度から、ぼくらがこちらへ会いにくることにします。よろしくおねがいします」そう言ってセンセイは朱鷺さんに頭を下げたんだ。だからオイラ、センセイのことも許すことにしたんだ。
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