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町内会
家人の実家である京都市上京区に転居して二年余りが経つ。転勤族の定年退職後の暮らしがはじまってすぐにコロナ禍となった。
ソーシャルディスタンスという言葉に分たれたせいか、あるいは自分の性格のせいか、今もってこの地に馴染むことができずにいる。
知らないひとばかりのところへ行くのが転勤族の定めで、ずっとそういう人生を送ってきたのに、出身地の京都に馴染めずにいるなんて、ヘンなことだとは思う。
言い訳のように聞こえるだろうけど、そこらへんのことを、思案してみた。
あたし自身は京都市のなかの南のほうの伏見区の出身で、そこはいわゆる京都の洛中からは外れた洛外である。
西陣とはいえ、洛中に生まれ育った家人はよく
伏見は羅生門の外で、世が世であれば、魑魅魍魎が跋扈していたところだ
なんてことを口にする。
確かにそれはそうなのかもしれないが、自分が洛中に生まれただけなのに、こういう上から目線の発言をする。
近所の古道具屋さんは店は上京区だが、住まいは別なところなので、その上から目線な感じがよくわかると言っていた。
上京区は御所があるから、威張ってるみたいやね。
御所があるから、とは意外なことばだったが、つらつらと考えてみれば、身分制度があった時代には天皇やお公家さんから始まる上からの順番があり、自分より下のものへの横柄な物腰が、ドミノ倒しのように伝わっていくのかもしれないと思われる。
どんくりではないが、なにかしらで、背比べして、ちょっとでも自分の方が高いとおもったら、上から目線の発言をするような感じ。
薬局の前でおじいさんが、薬局のノボリが道路に出過ぎてて、倒れたらどうする、年寄りにはあぶない、などと文句を言っていた。
気をつけてね、のひとことで済むことを、ねちねちと言い続ける。安全のため、客のため、店のため、と恩着せがましさがどんどん増していく。
自分は正しいことを言っているという錦の御旗を掲げたときの洛中の男性はえてしてこういう傾向があるような気がする。
ではおんなのひとはどうなのか?
街中でおばあさんとすれ違うと、その視線がなんだか重たい。ねめつけるというのか、値踏みするというのか、「あんた、みかけんひとやけど、どこのどなたはんどす?」とか、言いたげな目つきなのだ。それは自分のテリトリーに入ってきた不審者に向ける訝しむ視線だ。
どこのどなたはんどす?は新参者のこちらも言いたいセリフではあるが、そんな不躾なことはいえない。
生麩屋さんのご主人は、こちらが構えるから相手も構えるじゃないか?と言った。
構えているのかと自問する。いや、怯えているのかもしれないとおもう。
そんなこんなで、つまりは居心地がわるいのだ。
そして、町内会である。これまで集合住宅に住んでいたので、勝手がよくわからない。
しかし、コロナ禍で中止のものが多かったが、それでもなにかしら接触はあるわけで、
たとえば、賀茂からやってくる農家の八百屋さんを利用する方にはご挨拶は必ずするし、表は日々掃き掃除するし、回覧板は早めに回し、防災訓練には参加する。
が、たとえば、夜、外出してたりすると
電気が消えてたから、また引っ越さはったんかとおもたわ。
と言われる。
しばらく会わないと
洗濯物は干してあるから、お元気なんやろとはおもてた
とか、言われる。
あげく
おたくはカッコが若いわ。
とまで言われる。
そこまで、他人が気になって、他人の暮らしを想像していることや、ことばのダブルミーニングが、上京区の怖さだとおもったりする。
この界隈では、適当に相槌打って、適当に愛想笑いして、適当にお馬鹿さんになっていれば、いいのかもしれない。
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