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ふびんや 13「鼠志野Ⅰ」

夜の旧東海道に畳職人の雪駄が鳴る。一升瓶を抱えた統三が「ふびんや」の引き戸を開けて、声をかける。

「いやあ、いつもすまないねえなあ、あずさん。あつかましいが、また、ふたりしてごちそうになりにきたよ」

そのうしろで娘のあかねがぺこっと頭を下げる。外の冷気がふたりにまとわりついてきて、火の気のない店の温度はなおも下がる。

「ああ、統三さん、おこしやす。どうぞどうぞ」

あずはふたりを迎え入れ、クセのある重い引き戸をきっちり閉めて、カーテンを引く。

「今年は十二月に入ってから、えらいさむおすなあ。あかねちゃんも、あがってあがって」

店のこあがりから廊下に出て奥の部屋へ入ると、年季ものの灯油ストーブが真っ赤になって温めた空気が三人を迎える。

「あー、ここ、あったかーい」と、あかねがストーブの前に陣取って掌をかざし、統三は鼻をすすり上げる。

「おじさん、こっちへどうぞ」と、ひながコタツの上座を指して言うと、統三は手にした酒を差し出す。

「ありがとよ、ひなちゃんこれ、もらいもんなんだけど、新政とかいう秋田のほうの酒」

「へー『とわずがたり』っていうんだ。ありがとう、おじさん。寒いから熱燗かな?」

「ああ、いいねえ、たのんだよ」

白い割烹着を着たあずが三島手の鍋のふたをあけると威勢よく湯気が上がり、煮えた冬野菜の匂いが湯気にからまって部屋にひろがる。

「今日は、ほんまは湯豆腐のつもりやったんやけど、夕方、着付け教室の生徒さんらからお歳暮やいうてカニが届きましたんや。なんや、たんとあるし、みんなで贅沢にいただきましょなあ」

そういいながらあずがカニを入れ、他の具材も足していく。

「おお、うまそうだ。鍋はひさしぶりだなあ、な、あかね」

「もう、イヤミねえ。だって、鍋は大勢で食べるもんだもん。とうさんとふたりで食べてもちっともおいしくないんだもん」

「だよね。うちもそうだよ。はい、おじさん、お注ぎしましょう。駆けつけなんとかで」

ひなが統三の杯に燗酒を注ぐ。統三は太い指の間に収まった薄い杯を勢いよく空け、はー、うめえー、と声を出す。

「さあさ、そろそろカニもええみたいやわ。いただきましょうか」

気まぐれに強く吹く風が通りの電線を撓らせ、「ふびんや」のガラス戸を鳴らす。そのたびに古い一軒家はうめくように軋む。風にはむかうような犬の吠え声も遠く聞こえる。部屋のなかでは、カニ肉をせせる音とぐつぐつ煮える鍋の音が四人を包む。

「カニもいいが、寒くなると白菜がうまいねえ」

「ひょっとしてお豆腐は、男前豆腐ってやつ? なんかいいかんじね」

「ひなちゃんもどうだい?」と、統三が注いでくれた燗酒をひなも口にする。

くいっと咽喉に落とすと、とたんに体が熱くなる。ぽっと頬を赤くするひなを見てあかねが声をかける。

「ひなちゃん、日本酒、だいじょうぶなの?」

「うん、おいしいよ。なんか熱いんだけど、ふわってするの。いい感じよ」

「そうなんだよ、ひなちゃん、ふわっとしたいからみんな酒を飲むんだよ。な、あずさん」

「そうそう。お酒はぱーっと、あかるう飲みましょなあ」

「おばさん、もっと言ってやって。とうさんたら、ここんとこずーっと『せつー』なんて情けない声出しながら飲んでるの。『ひょっとして、おとこの更年期じゃないの?』って向かいのおばあさんが言うくらい」

「ばかいうな。なにが更年期だ、あのばあさん、言いたいこといいやがる」

摂の不在が長引いて、誰の目にも統三はいささか元気なく映る。日々を畳に向って過ごしてきた統三の背中はうまく言葉にできない思いを閉じ込めるようにいよいよ丸くなったようにも見える。昼間に見舞った病院でもリハビリ中の摂のほうが統三を案じていた。

「まあ、リハビリが始まったみたいやけど、だんだん入院が長ごうなってきましたもんなあ。わたしらかて、摂さんの顔が見えへんのはさびしいし、こころぼそうなってくるくらいやもんね。……そやけど、統三さんはとことん摂さんに惚れたはりますねんなあ」

酒が入るとあずの声はこころもちうわずり、酔うほどに弾んでいく。顔が赤くなり始めた統三の声もだんだんにまのびして聞こえてくる。

「いやあ、そんなこたあねえよ、あずさん。こういっちゃなんだが、摂のほうがあ、俺に惚れてるんだよ。だからー、俺はさあ、あいつがさあ、こうなっちゃってさあ、かわいそうでさ、たまらんのよー、わかってくれるかなあ、あずさん」

「あかねちゃん、おじさんって、ほんとに泣き上戸だね」

「そうなの、しばしばこういう泣きがはいるのよ」

「まあまあ、惚れたおんなに惚れられて、けっこうなことやないの。ふふふ、まあどうぞ」

あずはにこにこしながら酒を注ぐ。だんだんとあずの頬も染まってきている。

「あずはほんとに笑い上戸だね」

それは恵吾がいった言葉だ。冬の日、鍋の湯気の向こうに、あずが仕立てた紬の着物に着替えた恵吾が座っていた。

「もうちょっとふっくらせんと、着物が似合わへんわ。今日はお好みの沖すき鍋にして、お魚も貝もいっぱい入ってるし、どんどん食べてな」

「ああ、いただくよ。うまそうだ」

箸を取る恵吾を、うれしそうにあずが見つめる。恵吾が注ぐ酒をあずは愛おしげに飲んだ。ゆっくりと顎を上げていき、最後は白い咽喉元を見せて杯を空けた。杯を唇から離すと笑みを浮かべ、小首を傾げて、「ああ、おいし」と吐息のように囁いた。

「あずはほんとに、いいのみっぷりだねえ」

恵吾は幾度もあずの杯を満たす。

「いやあ、かんにんや。もうそんなに飲めへんわ」

そう言いながら、あずはまた白い咽喉元を見せる。酔うてしもたわ、と恵吾によりかかるあずの横顔。その肩にまわされる恵吾の細く長い指。

ひなも酔ってしまったのか、ぼんやりとそんなふたりの姿が浮かぶ。ひな自身がそこに居合わせたのかどうかはわからない。ひょっとしたらこの家のこの部屋の記憶がそんなシーンを自分にみせてくれているのかもしれないと、ほてった頬に手を当てながらひなは思う。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️