そんな日のアーカイブ 山本一力講演 江戸下町の人情
「山本でごさいます。今日は女性が多くて、わくわくしながらもまたこわいことでもあります。
わたしは昭和23年生まれです。20代はじめ旅行会社に勤めているときに結婚しまして、不実の限りを尽くしましてそれを2度もやりまして、3度目で今の家内にあってまともになりました」
山本氏はそんな口調で話し始めた。
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「愛」をめぐる物語なんて、こんな大きなタイトルの話はできない。惚れたはれたの小説の何十倍ものことをやってきたが、浮気は所詮うその恋愛である。相手を好きだと思っていろいろ話しても、家に帰るとカミさんがいることで、なにを話しても嘘になるし家に帰ってもまた嘘をつかなければならない。
あれはうまかったな、とつい言ってしまう。あら、わたし、食べてないわ。いったい誰と食べたの?と聞かれる。物語のなかではよくあるし、距離を置くと楽しめるが当事者は大変である。
嘘ばかりつくのはとてもしんどい。自分のついた嘘を記憶してなければならないからだ。今は何より正直に本当のことを言ってればいいので、こんなに楽なんだと実感している。たとえ揉めても、同じこと、本当のことの繰り返しで話はかわらない。
昭和41年(1966)高卒で旅行会社に入った。有楽町の交通会館の一階に配属になった。営業の仕事だった。18歳から十年間つとめて自分の都合で辞めた。そとのことをやりたくなった。
線路を越えれば掘割があって、街の通りは全く変わった。ガード下に細長い寿司屋横丁があり、そこは18歳の給料で食べられた。当時盛りそばがいっぱい3,40円の時代だった。一個10円の十円寿司、2貫で20円。それが寿司だと思っていた。
かつてのそごうの向かい側、電気ビルディングの一階にあった銀行に外貨を買うためのライセンスを出してもらうために毎日通っていた。その一階受付の女性と親しくなった。2つ年上の女性だった。雑談して打ち解けていった。あるとき彼女の上司が寿司を食いに連れて行ってやると言った。
銀行の車に乗って築地へ行った。ペーペーの小僧は夢見心地だった。
そこの寿司は20円の立ち食い寿司とは全くちがう食べ物だった。うまかった!なにしろ勝手かちがうので「生姜はないんですか」と聞いてしまう。場違いな子がきたよなんて顔で「今、中のおにいさんが出してくれますよ」と女将に言われてしまう。
そのときは奢ってもらったから、いくらかかるかわからない。だからこわくていかれない。でも口中にあの寿司の記憶が残っている。給料日まで待って、経費を除いて残った金額5千円を持って築地の寿司屋へ行った。
「前につれてきたもらった小僧だけど、どうしてもまたここの寿司が食べたくなって使えるお金を全部持ってきた。これで食べられるかな?」と女将に告げた。
女将は「えらいわね、あんた。うちに来る客で自分のお金で食べるひとはいないのよ。みんな会社のお金。本当にあんたは感心だ。ずっと来てくれるかぎり5千円で好きなだけ食べさせてやるから食べにきなさい」と言ってくれた。
19歳のとき銀行の女性を連れて行くと「ひとりで来るから5千円で食べさせてやってるんだよ」といわれた」
ここの女将からはいろんな寿司屋の作法を教わった。
――通ぶるひとがよく符丁でものを言うけど、あれはだめよ。玄人がしゃべる言葉をお客さんが言っちゃだめよ。「あがり」や「しゃり」じゃなくて、お茶とかご飯とかちゃんといいなさい。お勘定のことをおあいそというのは店がお客に対していう言葉なのよ。客が店にお愛想なんてしないでしょ?そういうのを中途半端に覚えて大人になったらみっともないことになる。
――いただきます、とご馳走様を言うと職人さんは気持ちがいいよ。お寿司って作るとすぐ味が落ちていくから、職人さんが台にのっけたら、ぺちゃぺちゃしゃべってないですぐに食べなさい。手で、ひとくちで食べなさい。半分に噛み切っちゃダメ。
私はずいぶん女性を連れていった。ちがう女性だと、前の話ができないじゃないか、と叱られた。わきまえて、前のことは決して言わない。同じ女性だと、この前はどうも、という。その呼吸。客を大事に愛情もって接するからできることだ。
やがてあの5千円はもうナシよ、といわれた。身銭を切って食べているとわかっているから桁違いに安くいただいた。直木賞いただいてからいくと、その店の寿司の本当の値段がわかった。その後も親孝行だと思って行っている。
女将がそういう息遣いを教えてくれたのは銀座や築地が下町だからだ。銀座も下町である。銀座で生まれたひとにそう聞いた。ひとのぬくもりが大事なところなのだと。
深川に住んでいるが、深川も下町である。下町の人情はいきなりできるものではない。ものかきになって人情や人のかかわりかたを思うと、銀座のひとが示してくれること、築地の女将が長い間してくれたことが、まさにそれであるとわかる。
いいからと言って寿司を食べさせてくれ、やがて、もう食わさないという。それは相手がどう変わっているかをみてそのときのことを一番大事にしてそう言うのだ。付き合いのなかで愛情がないと言えないことだ。ひとはそこをつい踏み越えてしまう。
直木賞を取ってその後短編集を出すまで一年がかりで自分を鍛えてくれた編集者がいる。自分が書いた作品を彼が付き返してくる。手を入れて出す、また打ち返してくれる。そこにあるのは新人のものかきを育てようという愛情であり、いっしょに伸びていこうという編集者の意思だった。
やがて彼との距離が縮まり、原稿ができるのをベランダで待ちながら、カミさんの料理をうまいといい、自分でうちの冷蔵庫をあけ、カミさん相手に酒を飲むようになった。(山本さんは酒は一滴も飲めない)
「今こうやってることがいずれ、いざ鎌倉のときに役に立ちますから。注文がくるようになったら編集者はダメがいえません。今は載ってないから私はいえる。今、力を蓄えていざ鎌倉に備えてください」
と編集者は言った。
そしてこうも言った。
「最初の編集者は作家さんが大きくなれば疎んじられるものです。あなたがそうなってもわたしは不満も怒りも言いませんからね」
彼は柏原光太郎という。彼の父の柏原兵三は芥川賞作家で何年か書きに書いて38歳でこの世を去った。担当した新潮社の坂本という編集者と二人三脚でずっと小説を書きつづけた。柏原兵三は坂本を疎んじることはなかった。そうなるまえに死んでしまった。
なぜ疎んじるかというと、あいつを世の中に押し出したのは自分だと自慢するひとが少なくないからである。それを毎日言われるとこころ穏やかではなくなる。未熟なころを知っている相手が大人になったとき、それなりの人物になったひとをつかまえてとんでもないガキだったんだぞ、と言ってはいけない場面がある。
寿司屋の女将が恩を売ることはなかった。池波正太郎氏は「恩は着せるものではなく、着るものだと」と何度も言っている。下町の寿司屋の女将を通じてたっぷりの恩をとりこむことができた。そのゆえにいっぱしのことを言えることもある。
まっとうな暮らしをしていれば、孫がいても不思議ではない年だが、いろいろあって、子供たちはまだ小さい。長男が小学校のとき、授業参観にいっておじいちゃんですか?といわれたことがある。
長男の3.4年の担任の先生の杉浦先生(杉ちゃん)のことを話すと長男は今も目をうるませる。
若くて美人で気立てがいい。オヤジはメロメロで、ちびっ子相撲大会で杉ちゃんの写真ばかり取ってきた。
先生の示してくれた愛情は人生を決定づける。息子が4年生の3学期に直木賞をいただいた。杉ちゃんは山本氏が小説を書いていることを知っていて、作品を読むことで力を貸してくれた。
直木賞の贈呈式は東京會舘で行われた。50人招待してもいいことになっていた。業界の人は除外するにしても、微妙な数である、親戚縁者、世話になったひと、かつての上司、先生、同級生、近所の人、いろいろ思案する。
マンションの家主を呼んだ。一年間家賃を待っていてくれた。毎日いいわけをしたがそのつど騙されてくれた。受賞を喜んでくれた。たまっていた家賃が入る、と喜んでくれた。しかし借金を返済するために小説を書いていると知ってまた心配になったという。
杉ちゃんにはなにを置いても来てほしかった。杉ちゃんの思いは100パーセント子供に向いていた。判断基準は子供にとって大事なのか、プラスなのか、しかなかった。わきまえのない親には堂々と拒絶もした。それをされたら子供が迷惑ですとすぱっと切った。100パーセントの無償の愛情からのことだ。深川という土地がはぐくむ人情文化が学校の下敷きになっている。
学年3クラスの合同社会科見学でゴミ焼却所へ行ったおりのこと、杉ちゃんが「そろっていきます」というと誰かが「何歩ですか?」と聞いた。
「780歩」と杉ちゃん。「わかりました」と生徒。
よそのクラスの子は私語を交わしながら歩いていたが、杉ちゃんのクラスの子30人は黙って指を折って歩数を数えていた。これは足りないなと思った杉ちゃんは「ゴジラの歩数だからね」と言った。
子供の方が一生懸命先生を慕っていた。教室の黒板の脇に札がかかっていた。「本気」と書いてあった。杉ちゃんはそれを見て自分を勇気付けていた。うしろにいる親や校長を見ないで、子供だけを見て向かい合っていた。30人の子供は夏休みがなくてもいいと思っていた。学校へ行きたくてしょうがなかった。
5年生になるクラス替えのカウントダウンの時期に直木賞の贈呈式があった。杉ちゃんは招待を断らず引き受けてくれた。うれしかった。友人家族に告げてよろこんでいた。
杉ちゃんの教えはいっしょうけんめいなさい、よけいな言い訳はしない、失敗から目をそらさないで本気でなさいというものだった。
小学校6年生のときの担任の恩師横田先生との出会いがあったから今の山本さんがあるという。日本人はもっと優秀な人種だ。戦争をして負けたけれど、日本人が悪くなったわけではない日本をよくできるのはお前たちだ。いっしょうけんめい勉強して社会をよくして、これからの日本を作っていっていきなさい、という教えだった。
その言葉は今もしっかり刷り込まれている。託してくれた言葉に戻って自分が本気なのか照らし合わせて自分の進みを修正できる。
日本人はずいぶん変質してきていると有識者は言う。そんなことはくそくらえだ。日本人はそんなに変わるわけはない。
わきまえのない現象はある。平気で大人が子供に嘘をついている、おためごかしを言っている。ふざけるな。
運動会で横一列でゴールして、なにが頑張った、だ。それがなんの教育か。自分を抜いて先を走るガキ大将の背中を見ながらかなわない力をわきまえる。足りないことをわきまえて悔しがることができた。そうすることで子供が悔しがる権利を奪っている。平等じゃないことは子供が一番良く知っている。受験で落ちることもある。
子供は大人を見上げることで大人ってすごいとわかった。それをわからせることが大人の愛情だった。子供のためにいいからと子供を育てていいのかというようなことを、手を変え品を変えやっている。
子供連れで寿司屋にやってくる。子供が「僕、中トロ」という。そして親が「わさびは抜いてね」という。ひっぱたいてやる。わさびの辛さをツーンとさせてこその寿司だ。この辛味がなければ魚がのってるメシで、寿司とは別の食い物だ。
親がちゃんとしていれば、寿司がどういう食べ物か知っていたらわきまえた教えをできただろう。
なんでもかんでも子供のためというのは間違いだ。ひっぱたけと思うがそうはいかない。
愛情とはなんなのかを突き詰めて考えてみると
見返りを求めない無償の行為だ。杉浦先生は本気でそれを行い、転校していった。
教育は頓服ではない。すぐに答えのでるものではない。横田先生の言葉を自分を律する礎とするように、何十年か過ぎたらどこかで効いてくる。せっついて求めても答えはでない。本物であれば時のうつろいのなかで大きく深く育っていく。