石川淳という文学
今はもう新聞を取っていない。おおむねネットニュースで済ませている。良いのか、悪いのか。
新聞には書評欄があって、評されている本よりも面白いものによく出会ったことを思い出す。関川夏央先生を見つけたのも朝日の書評欄だった。
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朝日新聞の読書欄の「たいせつな本」という書評を読んだ。黒田恭一というひとが書いている。
取り上げられているのは石川淳の「至福千年」
見出しには「贅肉を削った文章のリズムと疾走感追う」とある。
引用が多くなって恐縮だが本文はこんなふうだ。
「石川淳の書く語句に無駄はない。むろん、弛緩もない。全ての文章は鍛え抜かれたアスリートの筋肉さながらに、一切の贅肉を削ぎ落とし、情感の水気を振り払って疾走する。読み手もまた、目に見えない手の背中を押されるようにして、一気に読み進む」
ここまで、読んで、ほほう、そうかあ、と思いながら、自分が読んだ石川淳の作品を思い起こすも『焼跡のイエス』しかない。それもなんだかあやふやな記憶で、どんな文章だったかわからない。
なんだか汚らしい男の描写ばかりが思い浮かぶ。
黒田さんの本文はつづく。
「立ち止まって書かれていることの意味を考えている余裕などない。読み手は投げられたボールを目指す子犬にも負けない熱心さで、尻尾を振り振り言葉を追う。それが石川淳を読むということである」
えっ?なんでしょう?なんか妙な感じですが。意味を考えずにことばを追うのですか。しかもそんなに喜んで。
「理屈など糞食らえ。思想などという、変幻自在の生臭いものにかかずらあうほど石川淳は野暮天ではない」
えっ?意味もなく理屈もなく思想もなく、しかし野暮天ではない・・・。そうなのですか・・・。石川淳って・・・
「『至福千年』のページを埋めているのは、そのことば以外ではありえなかったすっぴんのことばだけである。鋭利な感覚で切り取られたことばを連ねた文章は、意味を伝えるという文章本来の役割を忘れて、抽象化していく。あるべきことばがあるべきことばを呼べば、おのずとそこにリズムが生まれて文章が疾走し始める。石川淳の文章が弓なりの緊張をはらんで直立して、剛毅さを誇るのはそのためである」
おおー、弓なりの緊張!つまり現代詩のようなもんですかね。つまり味わい方が違うということでしょうか?
この本は幕末、世直しをもくろむ一派と隠れキリシタンの暗闘がストーリーらしい。しかし黒田さんは正直にこんなふうに書く。
「恥ずかしながら、まだ、そこで語られている内容を十分に理解できているとはいえない」
うーむ。書評家にそこまでいわせる石川淳。おそるべし、と思いつつ先を進むと黒田さんはこう続ける。
「もっとも石川淳の文章を読むときはいつも
書かれている内容の詮索はいさぎよく諦めている」
うっ、そうなのかあ。ていうかそんなのありなんだ。ていうか内容の詮索をしない書評なんだ。
念押しのように黒田さんはこう書く。
「石川淳のことばを子犬のように追う読み手のお目当てはそこだけで体験できるリズムと疾走感である」
町田康さんの感じかなあ。
「スタンリー・キュービックの映画を見て、ストーリーなどそっちのけにして、ただ単純にその場その場の映像美に酔うのと同じである」
うーん、なんだかわからないんだけど、かくんとなる。こういうことが言いたくて黒田さんはこの本を選んだのかなあ。
黒田さんってどんなひとなのかな?と思うと音楽評論家とある。なるほど、だからリズムにこだわるのかもしれない。ドライブ感というものにも。
そんなことを思いながら小説を書くということに思いを馳せる。意味が伝わらなくても、達意でなくとも研ぎ澄まされたことばのリズムと疾走感だけ!で読ませること。それはなんともすごい腕前ではないか!!と感じ入る。
小説教室に、お話つくりがすごくうまい書き手がいる。そのひとが「エンタメでないように書くにはどうしたらいいですか?」と質問したことがあった。
先生は
「よくわからないように書けばいいんです」
と答えた。なるほどそれはこういうことだったのかと納得した。