ふびんや 15「鼠志野 Ⅲ」
冷えた空気が上気した頬に包んで、きもちがいい。思わず、ふーと深呼吸をする。「究極の失恋かあ」などと独り言をいいながら、ひなはゆっくりと階段を上り、あずの部屋に入る。くらがりでもなにがどこにあるかがわかる部屋だ。
押入れのいつもは開けないほうの襖をあけて客用の夜具から見慣れた毛布を引っ張り出す。それはこの家で恵吾が使っていた毛布だ。頬に当ててみると「ひな、おいで、あったかいよ」なんていう恵吾の声が聞こえてきそうな気がしてくる。あずもそんな声を聞くのだろうか、そんなことが気になってくる。
「はー、惚れたひとに惚れられたときから、せつなさもいっしょに背負い込むんだよねえ」
以前、あずの身の上話を聞いた摂が、遠い目をしてしみじみと言った言葉が、口をついて出る。それを聞いたとき、ひなには深い意味がわからなかったのだが、今になってみると、そのせつなさが身近だ。恵吾の気配が消えた朝、二階のこの部屋で、ひとり、恵吾が脱ぎ捨てて行った着物を畳んでいたあずの後姿が忘れられない。
一段一段を確かめるように階段を下りてくると、統三はいびきをかいて眠っていた。もって来た毛布を統三にかけると、一瞬あずの目がその毛布に留まる。
「これで、だいじょうぶかなあ」
「ひなちゃん、ありがとう。ごめんね。とうさん、飲み過ぎだよね。こまったもんだ」
あずが冷めた酒をあおるように飲んで、あかねに声をかける。
「……あかねちゃん……ほんで、あんたの……ほれ、なんていうたかいなあ……そやロドリゲスはどないしてるのん?」
「ロドリゲス? なに、それ」
「もうー、そうじゃないでしょー。あのね、母ったら、あかねちゃんの彼の名前、勝手にロドリゲスってきめちゃってるの」
「ははは、おばさんらしい。ロドリゲスかあ。ありがちな名前よね。言ってなかったっけ? 彼はアルマンドていうの。みんなアルって呼んでる」
「へー、アルマンドかあ。でもなんか母はまちがえそうな名前かもしれない」
「はは、アマンドとか、アルマジロとか?」
「……あんたら勝手なこといわんといて。そんなこといわへんわ……そやけど、アルさんがチューしたら、アルチューやなあ。ふふ、おかし!」
そういったかと思うとあずはコタツにつっぷした。
「ああ、だめだ、母もできあがってるわ。おじさんのこといえないよね。はーは、明日、日帰りバスツアーで、静岡のほうへ行くんでしょう?」
「へー、めずらしいね。おばさん、そういう旅行とか、みんなでどっかいくのって、あんまりすきじゃないんだと思ってた」
「うううん。ほんとはすきなんだけど、残念ながら、うち、お金がなくて、いけなかったの。でも今度のはクリーニング屋さんの抽選で当たったんだって。ただだからさ、どんなもんだかわかんないんだけど、母はたのしみにしてるみたいよ」
「へー、あれに当たったんだ。おばさんて意外にくじ運が強いんだね」
「うん。本人は霊感だって言ってるけどね。でもお酒は弱くなったみたいね。……はいはい、母も横になってね」
「弱くなったほうが飲みすぎなくていいよ。アルチューは怖いっす。健康は大事っす」
「ふふ、そうっすよねー。しょうがないからお開きにして片付けちゃおうか。まず母を二階で寝かせるね。わたし、お布団、ひいてくるわ」
「わかった。わたしも手伝うよ」
そのあと、ふたりは狭い台所に並んで食器を洗う。どちらの家で食べても、同じことをする。中学のときからあたりまえにそうだった。
「で、どうなの? アルをおじさんに会わせたの?」
泡だらけの食器をあかねに手渡してひなが訊くと、それを手際よくすすぎながら、あかねが答える。
「うーん、まだ。あのね、アルは今アルゼンチンに帰ってるの。むこうでお世話になってた伯父さんが急に亡くなったんだって」
「へー、遠いからたいへんだねえ。時間もお金も」
「ブエノスアイレスに着いてからがまた時間がかかるんだって。なんさかあ、いろいろ考えちゃうよね。この遠さ」
「なにしろ地球のうらがわ、だもんね。言ってみれば、あかねちゃんの体はここにあって、こころはアルのいるアルゼンチンにあるって感じかな?」
「そうだね。言ってみれば、うちのとうさんの図体はここにあって、ハートはかあさんのいる病院にあるって感じだよね。ははは」
「ふふ、言ってみれば、親子して『こころここにあらず』ですな」
「だからさあ、マジで、ひなちゃんも早くそうならないかな。なんか、話が遠いよ」
「ふふ、すまぬ、思慕がたりない未熟者でござる」
「ははは。ちりめんじゃこじゃのう」
ふたりはふざけあいながらも手早く拭いてすべて食器棚にしまう。
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