ふびんや 32「枇杷屋敷 Ⅱ」
まだ結っていない長い髪をふんわりと肩に垂らしている。いつものひっつめ髪のしっかりした感じとはちがってどこかやさしい雰囲気がする伊沙子だ。
「おや、あずちゃんはお出かけ? ひょっとして芝居?」
「うううん、商売。古道具を取りに来いって言われてね。山王のほうまで行くの」
「ああ、そうなの、この忙しいときにたいていじゃないねえ」
「でも、こういうのはこの時期多いみたい。大掃除とかしていらないものが出てくるし、心機一転みたいにおもうんでしょうね、いろんなものがやってきて、また、行ってしまう。まあ、これがうちの仕事であります」
縁あって「ふびんや」にやってきた古い着物や道具たちは、かつては、それぞれ持ち主の暮らしに寄り添って、たくさんの節目を越え、共に年を重ねてきたものだ。のっぴきならず、か、こころならずも、か、いわゆる諸般の事情で、ひととものは、重ねる年月の中で、はぐれてしまう。
手を離した瞬間から、ともに暮らした日々、過ぎた時間の思い出もそこで断ち切られてしまうのだけれど、それでもまた新たにだれかとめぐり合うことができたなら、そこからまた新しい時を刻んでいく
「そうそう、実は、今日は、そのいらないもののことで相談にきたのよ」
「ふーん、そうなの……ねえ、伊沙子さん、ここじゃ寒いから、店に入らない?」薄着のひなが肩をすくめて、言う。
「あ、ごめんごめん。悪いけどそうさしてもらおうかな」
「ふびんや」の店内では色鮮やかなちりめんのバッグやポーチといった小物が目に付く。それがこの時期の売れ筋商品なので、たくさん用意してある。いつもは高値がついてなかなか売れない大島紬のコートを着せられているトルソーもサーモンピンクの小紋のシンプルなワンピースに着替えている。
「あら、これ新顔? 素敵。鮫小紋ね。色もいいわ。ま、お値段もいいけど」と、目ざとく気がついた伊沙子が漏らす。
その小紋は細い点が鱗状に配されていて、それが鮫の肌に似ているので鮫小紋と呼ばれている。
「華やかでしょう? わたしが作ったの。実はこれ、ちょっと悲しい着物でね。新品だったんだけど、生まれ変わる感じにしたかったから、ワンピースにしたの。」
かつて、成人したばかりの娘を亡くした母親が持ち込んできた着物だった。長く骨の難病で苦しんでいた娘がいつか元気になったら、と願って作ったが、一度も袖を通すことはなかったのだと、母親は淡々と語った。そのまま持っておられたほうがいいのでは、というあずの言葉に母親は首を横に振った。
「ふびんや」のいわれを聞いたとき、ああ、これだと思った。だれかがこれを着て、娘が体験できなかったような、女としてのしあわせを味わってくれたなら、自分たちの願いもそこでかなうような気がするのだ、と潤んだ目で答えた。
「へー、そうなの。ひなちゃん、腕上げたねえ」
「大事に着てもらいたいからって母がちょっと高めの値段をつけたからなかなか売れないんだけど、伊沙子さん、お気に召しますれば、なにとぞお買い上げを」
「でもねえ、わたしにはこの色は派手だわ」
「そんなことない。髪を下ろすと似合うと思う。すっごくやさしいひとに見える」
「見える?」
「おっと、いけない。伊沙子さんはいつもおやさしいです……」
「ふふ、いいのよ、無理しなくて。あのさ、これはひなちゃんが、例の消防士さん、なんていったかしらねえ、そのひととデートの時に着ればいいじゃないの? ふふふ」
「もう、伊沙子さんまで……やんなっちゃう」
ひなの困った顔を伊沙子はうれしそうに見る。
たむら荘の火事の翌朝、腫れぼったい目をした統三が報告にきた。飛び交う怒声、重傷患者のうめき、古い建物を嘗め尽くす炎の猛々しさ、その煙の太さ濃さ、その色その音その匂い。統三がちからをこめて話す現場の生々しいようすをあずは表情を硬くして聞いていた。死者がでたと聞いて眉をひそめ、ため息もついた。
話の最後に統三はこう言った。
「いやあ、ひなちゃんが見初めたレスキューの土門って奴はさ、面構えもガタイもよくて、これがけっこう優秀な消防士なんだよ。まったく心配ねえよ、あずちゃん。」
「おじさんったら!」
ひなは、よけいなお世話だと思いつつも、あずがどう反応するのか気になった。息を詰めてその表情をうかがったが肩透かしのように、あずは頷き、ただ、笑っていた。統三が帰ったあと、軽くひなの背中を二回たたき「あんたの思慕もうまいこといったらええな」とだけ言った。
その後、火事のいきさつと土門の出現は、統三の口から町内に知れ渡っていき、日が経つにつれ、その伝言ゲームにはだんだんと尾ひれがついて、いつしか土門はひなのボーイフレンドということになってしまっていた。その話を聞いた町内のひとはみな、ひなの顔をみるたびに伊沙子と同じようにからかうのだった。
そして、いくらひながムキになって、まだなにも始まっていないのだと説明しても、どのひとも頷きながら、ただうれしそうに笑うのだった。
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