そんな日のアーカイブ 3 2003年の評論家 佐藤忠雄
もの知らずのあたしはこの佐藤さんが有名な映画評論家であることを知らなかった。
品があっておしゃれで都会的で、垢抜けした小粋なおじさまであるなあと思って眺めていたら、隣席のおばさんが「そうそう、このひと有名な評論家なのよ。知ってるわ」と声高に得意げにその隣のおばさんに教えてる声がした。つまりそういうかたなのだ。
そのひとが「小津映画のなかの東京」を軽やかな口調で語る。そのてらいのない軽やかさが
「有名な評論家」という冠をとっぱらい始める。肩肘はらない滑らかな言葉は心地よくこちらへ届く。
2003年は小津安二郎の生誕百年であり、没後四十年という節目の年なのだそうだ。
と聞いても、とりたててぴんとこないのはあたしがそう熱心なシネマファンではないからだろう。いや、けっして映画がきらいなのではない。あたしなりに充分にたのしんではいる。ただ、映画を分析的に見るのがどうも苦手なのだ。そういう知識、能力、情熱に欠けているのである。
というわけで、氏の語られる言葉はこちらの知らないことばかりなので、いちいち、ほうほう、ふむふむと頷き納得する。
小津は1903年、深川生まれである。三重の裕福な松坂商人の家の息子で、父親が深川で商売を取り仕切っていた。先祖に本居宣長がいる。
すごい!
10歳のときに母親とともに松坂にもどりそこで育った。映画に夢中になって受験に失敗した。三校受けて全滅だった。
小学校の代用教員となどをしていても、映画がやりたくてしょうがなくて、20歳の時、関東大震災の直前、父親のいる深川へ出てきて、蒲田にあった松竹の撮影所で助手となった。一念である。
小津映画で「東京」と冠された映画は多い。東京のコーラス、東京の女、東京の宿、東京暮色、東京物語などだ。
たとえば「東京物語」では尾道の老夫婦が、東京の息子たちを訪ねていく。そこで描かれる東京は、荒川の土手であり、煙突が三本あるだけの風景である。東京はけっしてすばらしいところとして描き出されてはいない。
例外的に「麦秋」という映画には「東京もなかなかいいぞ、よく見ておけ」とビル街をながめて上司が原節子のいうシーンがある。都会としての東京を描いているのはこれくらいである。
「早春」という映画では、結核患者である池部良の友人が病床で、丸ビルが少年時代からの憧れであったと語る。それはこころのよりどころとしての東京であった。実際に東京らしい繁華街やおしゃれでスマートな生活は描かれることはない。
「風の中のめんどり」では東京、江東区月島のあたりの、父が不在の家庭で、その家の子供が重い病気になる。家にはお金がなく、医者に診せることもできない。思い余った若い母親は一晩売春をする。子供の病気が治った頃に父親が帰還してくる。母親は事の次第を告げる。思い悩む父親が隅田川の川べりで、弁当を食べる女と話しながら思いを巡らす。隅田川にはぽんぽん船が浮かんでいる。
そこには素朴な虚飾のない、素っ裸の東京がある。あの若い母親を誰も責めることはできない
という思いになる。人間は誰もせめられない。
互いのせつなさを認め合うことしかできない。
ぽんぽん船の蒸気のリズムがやさしく切なく哀しくそういうことを描いている。切ない人間同士が肩寄せ合っている、そんな町全体に対する信頼感があった。みじめな姿を描きながら、そこにあったかみがあった。
それは、江戸の名残をとどめた特別な町への
小津のおもいだった。江戸時代、侠客のような町人は、しだいに自己主張するようになり、侍に対抗しようとする。そこから硬派のモラルに対する軟派の美学が生まれてきた。それは野暮ではいけない。あくまで粋でなければならなかった。洒落のめして、ぐうたらのように振舞いながら筋を通す江戸町人の都会文化の誇示である。
この軟派の美学が蒲田の撮影所に受け継がれていた。関東大震災で蒲田の撮影所がこわれてしまってそこに働いていたほとんどのひとが京都に行ってしまった。わずかに残ったひとが実験的な映画「小市民映画」を作っていた。
当時の蒲田の仲間である「キドシロウ」は精養軒の息子であり「シマダヤスジロウ」も「ゴショヘイノスケ」も問屋の息子だった。江戸町人のこころいきの末裔である豊かな商人の息子たちが目指したのは、さりげなく粋なユーモアのある作品でありしゃれた日常生活をさらりと描いた映画だった。
それは新劇の芝居のような大仰な演技ではなく
ほんのちょっとした何気ない動作でおもしろい、それが映画であるという方向だった。そのやり方を小津は学び、極限まで進めた。
小津は役者を操り人形のように扱った。あの笠智衆に対して「能面のつもりでやりなさい」と諭し「感情をいれるな!」と言いはなった。
どの役者にも感情のこもった演技をさせなかった。
その対極にあるのが多摩川の日活の撮影所だった。「大げさなしばいは田舎ものに任せておけばよい」のであった。
かつて小津は 故郷松坂で父親のいる東京で映画を撮るという憧れを抱いていた。小津の映画のなかの東京もそんな憧れの地なのである。そこで描かれる東京はけっしてけばけばしくなくわざとらしくもなく暗示的に頭のなかに思い浮かべる東京、観念の東京として描かれている。
それはある種の恋愛に似ている。イメージのなかだけで東京はすばらしいという思いが膨れ上がる。遠くから憧れて美化するプラトニックラブのように、ほんとうに東京はどうしようもないところだけれど、そのどうしようもないところがいい、というのが小津の描いた東京である。
佐藤忠雄さんの語るどのことばにも、なるほど、そうかあ、と頷くばかりでありました。
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Wikipediaより
佐藤 忠男(さとう ただお、1930年10月6日 - )は、日本の評論家、編集者。勲等は勲四等。日本映画大学名誉学長、文化功労者。本名は飯利 忠男[1](いいり ただお)。
日本映画学校校長、日本映画大学映画学部教授、日本映画大学学長などを歴任した。
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2003年7/28〜8/2まで、東京・有楽町よみうりホールで開かれた日本近代文学館主催の公開講座「第40回夏の文学教室」に参加し「『東京』をめぐる物語」というテーマで、18人の名高い講師の語りを聞きました。
関礼子・古井由吉・高橋源一郎
佐藤忠男・久世光彦・逢坂剛
半藤一利・今橋映子・島田雅彦
長部日出男・ねじめ正一・伊集院静
浅田次郎・堀江敏幸・藤田宣永
藤原伊織・川本三郎・荒川洋治
という豪華キャスト!であります。
そして17年が経つともはや鬼籍に入られたかたもおられ、懐かしさと寂しさが交錯します。
その会場での記憶をあたしなりのアーカイブとして残しておきます。