ふびんや 33「枇杷屋敷 Ⅲ」
市民病院の四人部屋に入った公子の容態は深刻なものではないという話だったが、ひなが見舞ったときは手や額に包帯がまかれ、ぐったりとして見えた。病室のカーテンの中にはいって来たひなに「ああ、ひなさん……どうも、ありがとう……」と言った声も煙で咽喉もやられたのかひどくしゃがれた声だった。
しかしひなの手の中に、懐かしいキューピー人形の姿を認めると、公子の表情がにわかに明るくなった。
「ああ、鞠子、鞠子。会いたかったわ」
公子は鞠子を抱きしめた。生き別れた親子の再会の場面のようだった。ひとしきり鞠子を撫で、ようやく思いがおさまったかに見える公子は、鞠子を膝の上に置き、包帯の巻かれた手で、ゆっくりと着ていた着物を脱がし始めた。
それはひなが正月用の着物を、という注文を受けて、祖母の形見のちりめんの着物地で作ったものだった。訝りながらその手元を見ていると、着物の下になにかがあった。ふくらんだビニール袋が鞠子の背中にガムテープでしっかりと巻きつけてあった。公子は袋を剥がし、開けてひなに見せた。
中身は公子の貴重品だった。財布、印鑑、預金通帳や年金の手帳といっしょに角の丸くなった古い写真も入っていた。昔風のいでたちでおすましをしているモノクロの家族写真だった。きっとそれは公子と公子のたいせつなひとたちなのだろう。全てを確かめた公子はほっとしたように「ああ、これで安心です」と言い、またゆっくりといとおしむように鞠子に着物を着せた。
「ほんとに、たいへんなことでしたねえ。これ、お口にあうかどうかわかりませんけど、母が作ったお弁当なんです。よかったら召し上がってください」
「あら、おいしそうね……ありがとう……お世話になって……恩にきます」
「無事に助かってほんとうによかったですね。公子さん、こわかったでしょう?」
野次馬に混じって、空に向かって立ち上る煙や、飛び散る火の粉を目の当たりにしたひなは、死人も出たという、あの現場の騒然とした雰囲気を思い出すと、その冷気がからみつくようで、背中のあたりが冷たくなるのだった。
「ええ……でも、わたしは、前にも、火事、経験してるもので……多少は落ち着いていた、と思いますよ……それで、大事なものは、肌身離さずもってようと思って……恥ずかしいけど、こんなふうにしたの」
公子は避難するとき、子供を背負うように、鞠子を背中にくくりつけていたのだった。
「でも、よかったですよね。ちゃんと手元に戻って」
無一文で焼け出されたわけではいのだとわかって、ひなはホッとした。それで多少は、これからの暮らし向きの設計図が描ける。
「あのとき、ひなさんの声をきいて……わたしはほんとにうれしかったわ。……ああ、来てくれたんだって、思って」
「ひとが多くて見えなかったから大声を出しました」
「それがよかったのよ……助け出してくれた、消防の大きなひとに……ひなちゃんのこと、話して、鞠子を預けたの……病院で、わからなくなったら、探しようがないからって、言ったら……わかってくれたの……今思うと、その消防士さん、ひなちゃんのこと、知ってるみたいだった」
土門のことだ。土門は公子の言葉をどんなふうに聞いたのだろう。
一晩中、あの現場で起こったことを何度も思い返していた。自分からみた自分ではなく、土門からみた自分を考えると、そのたびに、頬が赤らみ、身の置きどころがなくなってしまう。
ああ、みっともなく転んでしまった。それを土門が見ていた。頼りない自分の足。いざという時に踏ん張れない足。土門にそれがわかっただろうか。力強く足音高く歩む土門は、自分のシンコペーションのような足音をどう聞くだろう。
でも、とひなは思い返す。あんなふうに転ばなければ、土門を知ることはなかった。あの腕で引き揚げられることもなかった。この足が土門を連れてきてくれた。それでも、あんなときに唐突に名前を聞くもんじゃなかったのかもしれない。
土門は笑っていた。なにを笑ったのだろう。自分がみっともなかったせいか。また、あのひとに会うことがあるだろうか。もしも会えたら、どんな顔でどんなふうに話せばいいんだろう。
だれにも言えないような言葉がこころのなかになんども浮かんでは消える。