ふびんや 38 「闇坂 (くらやみざか) Ⅱ」
「ねえ、お雛さまだけなの? お内裏さまは貰ってこなかったの?」
「お内裏さんはないねん」と、あずが小さく首を横に振る。
「一体きりのお雛さまか……なんか不憫な事情がありそうだけど……あ、ひょっとしてこのひと、嫁ぎ先から追い返されてたりして……」
「まあ、あとで聞いてみたら、それに近いことがあったみたいやった」と、また、あずの表情が曇る。
「ふーん、そうかあ……せつないねえ」
ひなは慰めるようにゆっくりと人形の体に指を這わせて、着物の傷み具合を調べる。
「あ、ここ、虫食いがひどい……」
「ああ、ほんまやな。あんまり目立つようやったら取り替えるしかないな」
「木目込み人形をやってる友達と相談してみようか」
「そやな。飾りのことも聞いといてくれるか?」
「うん、わかった。頼んでみる。このひと、絶対に、なんとかして、もとどおりのきれいなお雛さまにしてあげようね」
ひなは人形の髪をふんわりと撫でつける。
「もちろんですがな。それがこのふびんやの・・・・・・」
言葉の途中で、あずが大きく咳き込んだ。心配げにひながその背を撫でると、ようやく咳が止まる。
「大丈夫? 風邪かなあ。このところものすごく忙しかったから疲れが出たのかもね。今日は早く寝たほうがいいね」
「はいはい。そうします」
「で、清岡さんちはどんなふうだったの?」
ひなが差し出す白湯に咽喉をしめらせたあずは今日の訪問を振り返った。
「そら、たいしたもんやったわ。大森駅からな……」
JRの大森駅から山王方面へ向う坂のひとつに「闇坂」がある。そう書いて「くらやみざか」と読むのだと標識が教える。その側面には「むかし、坂側に八景園という遊園地があり……この坂道は細くまがり、八景園の樹木がうっそうとおおいかかり、昼間でも暗かったために、この名がついたといわれている」とも書いてある。時を経て遊園地はマンションに変わりうっそうとした木々は刈られたが、呼び慣れたその名は残ったらしい。
傾斜の大きな闇坂は大きくうねっている。「ひったくりに注意」などと書かれた看板を横目で見ながら、番地を頼りに狭い路をみちなりに進む。家々の塀からは丈高い木がのぞく。
高級住宅街と呼ばれる地区だ。建て替えられたてマンションになっているところも多いが、古い門構えの家もまだまだ残っている。いずれ裕福な家にちがいない。「ふびんや」からはここに来るには、長い闇の坂を通らなければたどりつかないというのも、どこか暗示的なことのようにあずには思えた。
大学教授である清岡巧の家は見るからに大きなお屋敷だった。倒れそうなブロック塀が長く続き、すがるように這ったツタが枯れ残っている。その向こうには太い幹の丈高い木々が並んでいるのが見える。増改築を重ねていくつかの時代を生き残った屋敷は、洋風のようであり、またどこか和風の感じもする。
苔むしたような巨大な石の門柱と凝った意匠の金具のついた門扉は、どこか威圧的で、その前に立つ者をひるませる。あずが呼び鈴を押すと、門扉は時をねじ伏せるような音をたてて開いた。迎え入れてくれたのは電話をかけてきたお手伝いのハルタだった。
「まあ、お時間、ぴったりですわね」
総白髪のひっつめ髪で、真っ白なエプロン姿の老婦人はえらく大柄で、頭ひとつ分、あずよりも大きかった。色黒で、顔の造作も大きく、きりりとした顔立ちだ。どこか昔の寮の舎監さんのような雰囲気がある。
「どうぞ、こちらへ」
「おおきに。おじゃまします」
あずを先導してきびきび歩くハルタの筋肉質の足はずいぶん外股だった。遅れを取らぬようあずは小走りで追った。
門から玄関まで距離がある。左手には大きく庭が広がっている。玄関前のポーチにはアールデコ風の柱が立ち、屋根がついていた。外灯や敷石、植木、庭の東屋風の建物など、どれも古びてはいるが、デザイン性の高さがうかがわれた。あずは名所をめぐるような気分で見入り、筋金入りの金持ちだなと感心した。
ハルタが玄関の重く厚いドアを開けると、磨きこんだ床や年月を経た明かり取りのステンドグラス、複雑なゴブラン織りの敷物が、くすんだ色合いであずを迎えた。
天井の高い玄関から家のなかに足を入れると、なにかしら独特なにおいがした。時の残滓とでもいうのだろうか、古い家の体臭のようなもの。湿気と埃、そしてあれは葉巻のにおいだったろうか。
それにしても寒い家だった。暖炉に赤々と火が燃えてあたたかに迎えられるのでは、という希望的予想に反して冷え冷えとした空気が身を包んだ。清岡はここでハルタとふたりで住んでいるのだと聞いている。
いかり肩のハルタの四角い背中は寒さにひるむことなく進んだ。家のことをなにもかもきっちり仕切っている大きな背中は暗い廊下の道しるべのように見えた。
「ここに例の物、ご用意しておきましたから、まず、物色なさってくださいまし」そう言ってハルタは突き当りの部屋のドアを開けた。
物色という言葉があずの耳を刺した。いろいろ反論はできるが、結局のところ、傍からみればあずのしていることはそういうことに他ならない。
十畳はあろうかというその広い部屋には、蚤の市が立ったかのように古びた物が溢れかえっていた。長く物置に使われてきた部屋なのかもしれない。
籐の椅子、革のトランク、バスケット、ランプ、花瓶、蓄音機とクラシックレコード、ラジオ、目の青い西洋人形、大小さまざまな置物、ビスケットの缶、絵葉書、外国の絵本、木枠のラケット、不揃いな洋食器など、往時の先端を行くハイカラな暮らしが偲ばれる品々が、分厚い埃を纏ってそこにあった。
清岡が「ふびんや」で買っていったのはちりめんの小物だった。この屋敷の洋風の暮らしぶりにはにつかわしくないものだったなと思い出す。
読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️