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ふびんや 19「片袖袋 Ⅰ」
静かな師走の朝、冷たい雨が町を包む。ひなはいつものように掃除を済ませ、ストーブをつけて、部屋が暖まると、商品にかけた埃よけの白い布を取る。そして着物地で作った洋服や小物、わずかにある骨董品のひとつひとつを手にとって確認しながら、それぞれが纏った夜の冷気を払う。
すると、一夜の眠りからさめた品物は、和紙のシェードをくぐった白熱灯の光を浴びて、どこか柔和な表情をみせ、遠慮がちな声で、わたくしはここにおりますから、と囁く。
カーテンを開け、軒先に傘立てをだして「ふびんや」の開店だ。ひなはそのまま店先に佇んで、ガラス戸越しに外を見る。
通りに人影はない。乳白色の空からアスファルトに落ちる雨は激しくはないが、すぐには止みそうもない気配だ。配達の軽自動車が浅い水溜りの水を静かにかきわけて、ゆっくりと通り抜ける。
あずが乗ったバスは朝早く新宿を出発した。日帰りとはいえ、久しぶりの遠出に心弾ませていることだろう。今頃はどのあたりだろう。あずもまた窓ガラスを濡らす水滴越しに、雨にけぶった景色を眺めているのだろうか。
奥にむかって歩き出すと、カッカッカッと急ぎ足で駈けて来る下駄の音がした。振り返るとガラス戸が軋みながら開いた。
「ひなちゃん、朝早くからごめんねー」
元気のいい声が響き、カーラーを巻いたすっぴんの伊沙子が、上着の前をかきあわせて飛び込んできた。ストーブで暖まってきた店内の空気がにわかに冷え、湿気が忍び込む。
伊沙子は「ふびんや」の横の路地を入って五軒目にある小料理屋「笹生」の女将だ。実際の年齢は誰も知らないのだけれど、いつも若作りで華やいだ雰囲気がする。肌もきめが細かく、つやつやしているので、いつだったか肌荒れした摂がうらやましがると、秘訣は卵の白身と日本酒を混ぜたパックだと言っていた。しかし、今朝の眠たげな素顔はいささかくすんでいて、五十歳をいくつか超えて見える。
「ああ、おはようございます。伊沙子さん。今日は、ずいぶん、早いですねえ。夕べも遅かったんじゃないんですか」
「うん、まあね。ああー、眠いわね。あれ、あずちゃんはいないの?」
伊沙子は、もともと着物は着慣れてはいたが、あず流の動きやすく楽な着付けの評判を聞いて、自分も習いたいとしばらく地区センターの着付け教室に通っていた。そこでウマがあったのか、以来、摂ともども、気楽な付き合いが続いている。
「あの、今日は朝早くからバスツアーに行ってて、いないんです。日帰りだから夜には帰ってますけど」
「ああ、クリーニング屋のあれ? そうか、今日だったんだ。聞いてたけど忘れてた」
「母は、静岡に行って、おいしいお魚を食べるんだって言ってたけど、要領をえなくて……伊沙子さん、詳しい行き先とか、知ってます?」
「ははは、まったくあずちゃんらしいわねえ。あのひと、実は静岡がどこにあるかもよくわかってないんじゃないの?」
「ふふ、さすがに京都までの新幹線が通ってる府県はわかってるみたいですけど、天気予報とか見てると、頭の中で栃木と群馬がごっちゃになるみたいな感じですよ」
「ははは、やっぱり関西人よねえ。……えーっと、あのツアーはね、たしか、焼津へいくのよ。『大トロ入りマグロてんこ盛り丼、イチゴもみかんも山盛り、特典いっぱいつきの満腹ツアー』とか書いてあったわよ。前にテレビの旅番組で見たことあるけど、なんだかお店をいっぱい巡って、ただでいろいろ貰ってくるみたいよ」
「へー、そうなんだ。なんかすごそう。てんこ盛り丼って……。きっと母はそれを説明するのがめんどうだったのね。『なんでもええがな』ってしょっちゅう言うし……」
「はは、ほんとにおかしな親子ねえ、あんたたちは。ふたりの話聞いてると、時々、立場が逆転してるよね」
「そうかなあ……で、母になにか?」
「ほら、摂ちゃんのお見舞い行くっていってたから、どうしたかなって思って」
「ああ、そのこと。昨日、わたしもいっしょに行ってきたけど」
「どうだった? うちもお見舞いに行っていいかしらねえ。うちのが、病院食はまずいだろうし、うまいもん作ってやるから持ってってやれば、っていうのよ」
「うーん、どうかなあ。なんか、お正月は帰れないみたいだったけど」
「ああ、まだ、いけないのかしらねえ。摂ちゃん、かわいそうに。まあ、寒いからね、病院のほうが安心ていえば安心だけど」
「あ、母もそう言ってます。逆に心配なのは統三さんのほうだって」
「そうね。うちのもそういうのよ。よく飲みにきてくれるんだけど泣き上戸でね。……あ、そうそう、そっちはついでの話で、今日は、ひな袋をもらいにきたの。ここのところ、法事とか忘年会で貸切が続いて、なんだか店が忙しかったもんだからこれなかったのよ」
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