ふびんや 39 「闇坂 (くらやみざか) Ⅲ」
「それでは、なにか御用があればよんでくださいませね。先生は原稿のお仕事がありますし、わたくしもこの時期はまことにいそがしゅうございましてね。失礼いたします」
ハルタは姿勢よく出て行った。その背中が熱気を放っているかのように見えた。働き者で代謝がよくて、体温も高いに違いない。だから、暖房が要らないのだろう。ここのヒーターも入れてくれそうな気配ではない。
ひとり部屋に残されると、ひやっとした空気が首筋に入り込んだ。ため息をつきながら部屋を見回すと、庭に面したくすんだ洋窓からは芝生の上に置かれた木製のベンチが見えた。その上に葉を落とした木の細枝と曇った師走の空がひろがっている。
「そちらさんからのお申し出ですのに……」
そんな言葉が口をついて出た。その直後に携帯が鳴り、ひなからの「おおきなつづら」のメールが入った。あまりに寒くてその画面の明かりさえ暖かく感じた。
詳しい事情はわからないが、とりあえず手に取った物の埃を拭いながら、フリーマーケットで売れそうなものを仕分けていく。まあこれでは、物色する、と言われてもしかたがない。あずはそういうものの目利きができるわけではないが、どれも状態さえよければ、かなりの高値をつけても売れる品物のように思えた。
いくつかあるバスケットに、ランプや西洋人形、陶器の置物や洋食器を、持参したエアクッションにくるんできっちりと詰めていく。自分自身の引越しは人生にただ一度しかしていないのに、いつの間にかこんな作業に慣れてしまった。
海外旅行のシールが重なりついている革のトランクにはレコードと絵本を詰める。絵本や西洋人形を手に取ると幼子がいた景色が見えてくる。残されたものが過ぎし日の主の暮らしの輪郭を語る。
レコードはどれもジャケットはなく、黄ばんだ無地の紙に包まれている。何枚か取り上げた一番上のものの真ん中の穴から題名が見えた。
ベートーベンの交響曲第5番ハ短調「運命」。
「あずは、ジャジャジャジャーン、しか知らないだろうけど、これ、けっこう聴かせるぜ。第三楽章なんか、好きだな」
こんなところで恵吾の思い出にめぐり合ってしまう。「運命」は恵吾の腕のなかで聞いた。記憶の中に深く刻まれた濃密な時間が立ち上がる。オーケストラの奏でる音は耳からではなく皮膚から染み入ってきた。その音に揺さぶられ、自分のいる場所をふっと忘れた。いや、恵吾といっしょにいるときは、いつだってそうだったのかもしれない。
前触れもなく恵吾は黄泉への闇坂を下っていってしまった。運命なんて誰にもわからないことだ。身体に残る音楽を消すように、あずはそのうえにバッハの無伴奏チェロ組曲のレコードを重ねて入れて、トランクを閉じた。
とりあえず配達してもらえる形にまとめた品物を部屋の外に出し、冷たくなった指先に息をふきかけこすり合わせていると、チクンとなにかが首筋に刺さったような気がした。
振り返って部屋のなかを見回しても誰もいない。が、それでも誰かがそこにいて、しかも泣いているような気配がするのだった。
それはひとにはわからぬことだが、あずにとっては、おなじみの感覚だった。整合性のある説明などできはしない。しかし、この部屋にあるなにか古びたものに呼ばれている。それはいずれふびんなものであるにちがいないが、その呼び声が誰のものか、どこからくるのか、わからない。部屋の真ん中であずはこころを澄ます。
部屋のなかにはまだまだ荷物が残っていた。その中のものなら、もっと早く気づいているはずだが、どれにもなにも感じなかった。それでも、もう一度すべて手に取って調べてみる。が、わからない。
「あらあら、ずいぶんお時間かかっておられますわねえ。そろそろ終わりますか? お帰りの際には、センセイにご挨拶をされますか?」
ハルタがやってきてしまい、あずはいささか焦った。物色に長く時間がかかっていることを欲どしく思われることは平気だが、この事態はうまく説明ができない。ハルタは案じ顔になって、舎監のような詮議する目であずを見ている。
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