ふびんや 28「土門 Ⅱ」
さっきからの胸騒ぎの原因はこれだったのか、と血が引く思いでひなが訊く。
「あ、あかねちゃん、ひょっとして、摂おばさんがどうかしたの?」
「うううん、そうじゃない。かあさんは大丈夫だから安心して。あのさ、さっきサイレン、聞こえたでしょう?」
「うん」
「あれ、消防車で、たむら荘が火事なんだって」
ひなは息を飲む。これだった、と思う。
「えー、えらいことや。たむら荘ていうたら、あのキューピーさんの着物をぬうたげたおばあさんのやはるとこやないの」
「そうなの。今からとうさんが消防団の助っ人で行くから、車出すって言ってるんだけど、ひなちゃん、どうする? いっしょに行く?」
「あ、わたし、行ってもいいの? 公子さんひとり暮らしだから心配は心配なんだけど……」
「ひな、あんた、だいじょうぶなんか? 迷惑かけることにならへんか」
「おばさん、ひなちゃんが行くなら、わたしも行くから」
「まあ、ここでやきもきしててもしゃあないけどなあ。あんた、ようよう気いつけてな。あんまり火のそばによったらあかんえ。こんどがわたしがなんやしらん、ざわざわするわ」
「うん、わかってるって」
支度をして表にでると車のなかで半纏を着た統三が待っていた。ぺこんと頭を下げるひなに統三は言う。
「おっ、きたきた。あったかくしてきたかい? ひなちゃん」
「うん、カイロも持ってきた」
「あのな、この火事、ひょっとしたら放火かもしれないんだ」
「えー、放火? そんなの、ひどい!」
「あのアパートのある町内、このところ、不審火が続いてるんだ。消防団でも警戒してたらしいんだけどな」
「とうさん、話はあとで、早く出して」
「ああ、わかってるよ」
ヘッドライトが商店街に伸びて、くらがりでたむろする酔客を照らす。まだまだ灯りが消えない師走の大通りを車は進む。ファーストフード店の前の派手なノボリが、激しく波打って風の強さを教える。
星の見えない空、せわしなく雲が風に流されていく。まだざわざわする気持ちを抑え、ひなが言う。
「あのアパートは路地のつきあたりにあるって母が言ってたんだけど、そんなところは、消防車がはいれないよね。いったい、どうやって消すのかな」
「ああ、あのへんもごちゃごちゃ家が建て込んでるからなあ。路地に手押し車が入るかなあ。背負い器で入って、ホースをながーく伸ばすしかねえな」
「古いアパートだから燃えやすいんでしょ?」
「ああ、それにこの風だもんな。はー、まいるな」
現場のそばまでいくと何台も連なった消防車の点滅する灯りがあたりを染めていた。塀や木戸や立ち木までもが赤い。まがまがしい、とまでは思わないが、なにやら不穏な雰囲気のするスポットライトだ。
三人は路地のだいぶ手前の大通りで車をおりて、ようすをうかがう。同じように現場を遠巻きにしているひとたちがけっこういる。寒そうに腕組みをして、それぞれの連れとなにやら囁きあっている。
路地の奥から暗い空に向かって、太い煙が風に揺らぎながら立ちのぼっているのが見える。火の粉も飛んでいる。ここからは見えないが、炎は風に煽られ、ふくれあがり、大口を開けて建物を飲み込んでいるに違いない。
「チクショウ、ずいぶん、おおごとになってるみたいだな」
横道にはいって、もうすこし現場に近づくと、アパートに続く路地の入り口が見えてくる。路地に続く地面には何本ものホースが生き物のようにのたうっている。
吐く息が白いこの寒さにもかかわらず、路地の先を覗き込むたくさんのひとが群がっている。荷物を抱えて避難していく住人もいて、そのあたりは騒然としている。気がつくと、家が燃える匂いとなにかほかのたくさんのものが入り混じった匂いがしている。
パチッとなにかが弾ける音、舞い上がる火の粉。がさっとなにかが崩れる音。放水の音。勢いある水が建物にぶつかる音。怒鳴るように掛け合う消防士の確認の声。無線の鳴る音。入り乱れて踏みしめる足音も聞こえてくる。
そんな音に耳を奪われながら、ひなは、貪欲にすべてをむさぼり尽くそうとする炎を思い浮かべる。そして無意識に息を詰めて、胸の前で両の拳を重ねて握りしめる。
マイクを持った消防士が厳しい顔つきで消火に状況を説明し、苛立ったような声で、ここは危険だから、もっと下がるように注意している。時折マイクがキーンと高く鳴る。
「こっちの組長さんさがして挨拶してくる。キューピーばあさんのこと、聞いてきてやるよ。ばあさんの部屋は何号室だい、ひなちゃん?」
「一〇三号室。内藤公子さんていうの」
「わかった。俺はちょっと手伝うことになるかもしれない。寒かったら車のなかで待ってな。ここいらはあぶないからさ、下がったところにいたほうがいい。気ぃつけてな、」
統三は慣れた手つきで野次馬を掻き分けて路地のなかへ入っていった。消防団のごつい半纏の後姿はいつしか見えなくなった。
「なんだか、おじさん、かっこいいね」ふっとそんな言葉がひなの口をついてでた。
「ふだんのとうさんじゃないみたいでしょ? こんな時はアドレナリンが出まくってるからね」
「ほんとに、江戸っ子って感じね」
「ま、江戸の華っていうしね。そのむかし、かあさんはあの姿に惚れたらしいよ」
「でしょうね。おじさん、お祭りのときも、きりっとしてるもんね」
「あれで、けっこうモテたりして、まあ、ちょっと揉め事もあったらしいよ」
「へー、それは初耳。あんなに摂おばさんに惚れてるのに?」
「だからさ、そこも江戸っ子なのよね」
「そういうの、江戸っ子なの?」
「いろいろ血が騒ぐってこと」
ふたりは背伸びしながら野次馬の最後尾に連なって、統三が消えた路地の奥をうかがう。路地は曲がりくねっていて、先が見通せない。ただ、現場の音と匂いとひとの気配が、出口を探してうねりながらあふれてくる。
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