椰子の木陰で。
そんなこともあったな。ゴーキャンとある社長のこと。
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タヒチを訪ねるTV番組が流れていた。ながら見で全部を見たわけではないのだけれど、こんなナレーションが耳に届いた。
「タヒチでは食べるものに事欠かないのであくせく働く必要がない」
ああ、そういうものか、と思った。南の島の男たちが、なんとなくのんびりと時を食んでいるように見えるのはそういう事情なのだろうな。
が、食うために働くのだとしたら、そういうことになるが、働くために食うとしたら、そうはならないだろうな。
ふっと精力的なIT系の社長のことが思い浮かんだ。彼がタヒチに生まれていたらどうだったろう。
南の島の男子らしく、ぼんやりとやしの木陰で夕日の落ちるのを眺めていただろうか。そうこうしているうちに、野心のようなものは光や風や波の音で消えてしまっただろうか。
いつだったか有名な女占い師が彼は趣味を仕事にしたからほかのことでは満足できないのだと言っていた。たとえタヒチで生まれても、やしの木陰で、遠く宇宙のことを夢見続けたりしたかもしれない。
テレビはつづいてゴーギャンを紹介した。パリの妻子を捨ててタヒチへ移り住んだ男である。
ゴーギャンがのほほんと南の島の生活を満喫していたかといえばそうではなく、絵がうれない画家の悲哀をひきずった人生を送っている。
その自画像はアイパッチをはずしたフック船長のようにいささか凶悪にみえる。酷薄にさえみえる。妻子捨てたという先入観がそう見せるのかもしれないが。
ゴーギャンが画家になる前の職業が株の仲買人だった。絵にさえ手をださなければ、趣味にしておけば、妻子を捨てることもなかったし、もう少し柔和な顔で日々をおくれたのかもしれない。
ある日、その社長が株の売買で大きくしていったふくらんだ風船に針が刺され、空気が抜けていった。しぼんだ風船では、もう宇宙へはいけないのかもしれない。
彼の錬金術に惑わされたひとびとはこいつが悪いんだと指差す。カオナシが差し出す金に狂喜したひとたちがそうであったように。
食べるものがふんだんにあってもアクセク働くひとはいる。金がふんだんにあってもなおも求め続けるひともいる。金がなしうることはたくさんあるが、満足は金では買えないのかもしれない。
やしの木陰で風にふかれながらそれだけで満足できたら、それは人生の達人なのかもしれないなと思いつつ、強い日差しのタヒチの映像を見ていた。
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