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ざつぼくりん 53「わたこⅠ」
寝静まったはずのふたごの子供部屋でなにやら気配がした。時計を見ると十時半だ。絹子が子供部屋のドアをあけると、抱き人形といっしょに寝ている沙樹の寝顔が浮かぶ。時生譲りのくせ毛が枕の上で跳ねている。飛び出した手を布団に入れて二段ベッドの上の段を見ると、多樹の布団がこんもりと盛り上がっていた。
――ねえ、わたこ。いっしょにいこうね。いつって、あしたの夜だよ。やくそくしたじゃない。だめだめ、沙樹ちゃんにはないしょよ。だって、沙樹ちゃんにいったら、とうさんにばれちゃうもん。そしたらとうさんは、また、だめって言うにきまってるもん。
どうやら多樹は布団のなかで「わたこ」と話しているようだ。こんな時間に何の相談をしているのか、と絹子は耳をすまして続きを聞き入った。
――わたこだって知ってるでしょ? とうさんってさ、すぐだめって言うの。メアリーポピンズごっこも、幼虫探しも、木の根っこ飛びも、迷子こっごも、おもしろいことはみんなだめだって。沙樹ちゃんは、とうさんがよわむしなんだからしょうがないよ、っていうけど、それでもわたしはなんだかつまらない。
絹子はしずかに苦笑する。確かに時生には分別くさいところがある。それは故のあることだとわかってはいるが、ここのところいよいよ先生くさくなってきたような気がして、正直にいうと絹子もときどき多樹と同じ気持ちになる。
――だから夜に公園へいくなんてとうさんに知られたら、だめだめ、あぶないからってとめられちゃうもん。……わたこは、かあさんもとめるとおもうの? そうかなあ。かあさんはいいって言ってくれるとおもうんだけどなあ。
うん。夜の公園には楽しいことがありそうね。きっとお星さまもきれいで、お昼間は静にしてるものがもこもこ動き出したりするかもしれないし。そんな面白い計画があるのなら、かあさんもいっしょにつれてってほしいわ。絹子は多樹の言葉にこころのなかで答えた。
――わたこはいきたくないの? ああ、くらがりがこわいのかあ。しょうがないなあ。じゃ、わたこのために懐中電灯もっていく。どこにあるか、知ってるからだいじょうぶよ。まだこわいの? じゃ、わたしのリュックに入ってればいいよ。きゅうくつでもそれくらいがまんしてよ。公園までの坂道はたいへんだけど、近くだからすぐつくよ。家をでたら、ちゃんとわたこをオンにしてあげるから。
「わたこ」はブルーの目をした白いねこのぬいぐるみで、ふわふわとやわらかな毛が全身を覆っている。「わたがしのようなこねこ」だからそうつけたのだと多樹はいう。多樹ちゃんのねこ「わたこ」っていうんだってー、へんなのー、と沙樹が言えば、沙樹ちゃんのお人形の「しるこちゃん」のほうがものすごくへんー、と多樹が言い返す。時生に、どっちもへんな名前つけたもんだなと呆れられて、ふたりともずいぶんふくれていたが、それでも、それぞれにおきにいりの響きなのか、意地なのか、決して変えようとはしない。
「わたこ」は腹部に埋め込まれた単三乾電池二個で動く。スイッチが入ると、体の数ヶ所に付けられたセンサーがこちらの動きにとらえて機械音とともに動き始める。多樹がうわのそらで触っているときもセンサーは働き、多少カクカクとはするものの、本物のねこのように気まぐれで複雑な動きをみせる。
頭や胸を撫でるとまばたきをし、鼻に皺を寄せ、咽喉を鳴らす。しばらくほおっておくと「みゅう」とさびしげにひと声鳴いて「伏せ」をし、目を閉じて眠ってしまう。そんなとき誰かがそばを通ると、むくむくと起き上がりお座りをして、小さく頭を下げたり小首をかしげたりする。
多樹が寝たあとも思いもよらないときに鳴き声をあげるので、はっとすることがある。何度かその声に驚かされた時生に「他のひとの迷惑になるから」と注意されて以来、夜、「わたこ」のスィッチはオフになっている。
――ね、わたこ、しってる? 公園の入り口にほら、枝がひもみたいにぶらさがってる木があるでしょ? あれ、やなぎっていうのよ。そばの手すりに乗って手をのばしたらその枝に届くの。ほそいから三本くらいいっぺんに取ってつかまって、ぶらさがって、ゆらして、遠くまで飛ぶとすっごくおもしろいの。ちょっと手のひらがいたいんだけどね。ぶらぶらやなぎごっこ、っていう、とうさんはしらないあそび。えー、わたこはこれもこわいの? ほんとにおもしろいのになあ。
ぶらぶらやなぎごっこ? それはターザンみたいで格別おもしろそうね。多樹が思いついたの? すごいなあ。かあさんもやってみたいけど、身長と体重が、ちょっと無理だわ。絹子はこっそり風変わりな会話を続ける。
――ちがうちがう、ぶらぶらやなぎごっこをしに行くんじゃないの。こうじぃに会いにいくんだから。
……多樹……孝蔵さんはもう死んだのよ……。
――なんでって、夜になるとねー、死んだ人はやなぎの木の下にひゅーって現れるのよ。カンじぃがそう言ってたもん。カンじぃのことはわたこも知ってるでしょ。そうよね、カンじぃはいっぱい本読んでるからなんでも知ってるくせに、いっつも、頭なでながら、さてね、っていうよね。なんでだろうね
そうそう、沙樹はその真似をして、抱き人形の「しるこちゃん」という名前の由来を、誰に聞かれても、さてね、と言って教えない。なんでも全部知ってる子という意味だろうね、とみんなは推測しているけれど。
――きっとね、こうじぃもあのやなぎの木のしたに来るとおもうの。カンじぃんちで見たあの「かけじく」のなかの、ちょっとこわい顔したおばさんみたいに空を飛んでくるにきまってる……空、飛んだら息がくるしくなんないからね。
孝蔵が逝ってしまってからのこの半年あまり、多樹はどれほどいなくなった孝蔵を探したことだろう。引き込み運河の堤防や孝蔵の入院先の病院の階段の踊り場で、探しつかれてはうずくまり、こうじぃがいないの、と多樹は泣いた。こうじぃは死んでしまってもうどこにもいないんだよ、と時生は何度も諭し、なだめた。むろん沙樹も悲しがったが、時生のその言葉をそのまま飲みくだして、孝蔵のいない現実に次第に添っていっているようにみえた。
しかし、多樹は何度そういわれても首を横に振るばかりだった。いるもん、絶対にこうじぃはいるんだもん。めっかんないだけなんだもん。泣きながらそう繰り返す多樹を絹子はただ抱きしめるしかなかった。
――ああ、わたこはこうじぃのことしらないんだね。こうじぃが飛んできたら紹介してあげるね。……きっと、わたこが鳴いたら、こうじぃは、おう、わたちゃん、おめえ、元気そうだな、っていうよ。
「わたこ」と「しるこちゃん」はふたごの五歳のバースディプレゼントだ。「わたこ」は、本物のねこが飼いたいという多樹をなだめて、時生が選んだものだ。秋に生まれたふたごが五歳になるまえに孝蔵は逝ってしまった。
――えー、こうじぃがこわいわけないよ。大きくてやさしいよ……わたこみたいにのどがごろごろしてるの……おおきなてのひらで……頭をなでてもらうと……いいきもちになるよ……しずばぁが……すごく……会いたがってる……っいうの……それから……。
声が途絶えた。どうやら多樹は眠ってしまったらしい。ゆっくりと布団をはいでみると、多樹の寝顔が現れる。やはりくせ毛が踊っている。「こうじぃに会いに行くんだから」という多樹の言葉が絹子のこころのなかでこだまする。
多樹の額にかかった髪をかきあげ、頬に手を当てると、多樹の腕のなかの「わたこ」の青い目がちらっとこちらを見たような気がした。「あなたもお付き合いごくろうさま」と絹子は声に出して呟き、そのふわふわの毛を撫でた。
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