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ざつぼくりん 49「次郎Ⅱ」
「さてと……仕事の話をしようかね。勉ちゃん、うちの『いとでんわ』をいったいどこへつなげたいんだい?」
「あ、それそれ。品川の手前まで行ってもらいたいんだよ」
「品川かあ。ちょっとまってくれ」
次郎は美術本の並ぶ隅の本棚から小さな赤い地図帳を取ってページをめくる。東京二十三区という背表紙の文字がかろうじて読めるが、角が擦り切れどこも傷んでいる。
「東京行くときはいっつもそれだね。そいつ、ほんと年季もんじゃん。ジロさん、東京もずいぶん変わってるぜ」
「はは、そうだな。ときどきびっくりするよ。だけどさ、昔は、京都と湘南のことならまかしとけでも東京はあんまり詳しくなかったもんだからさ」
「あ、ジロさん大学が京都だったんだよね。奥さんも京都のひとだったんだろ?」
「ああ。あっちは路が碁盤の目みたいなもんだからかわかりいいんだけど東京はそうはいかなくてさ、こいつにはずいぶんお世話になったんだよ。だから捨てらんないのさ」
「性分だねえ。ね、いっぱい紙、挟んであるけど、そりゃあなんだい?」
「うん? これは『うなづきおやじ』のお客の所番地と行き方が書いてあんの。地下鉄の駅名とかバスの系統とかね。時々アフターケアってのもあって、ずっととっとかなきゃならないんだよ。ま、こいつは大事な道案内さ」
地図帳からはみだした黄ばんだコピー用紙の角が丸くなっている。東京ではその紙の数だけ次郎はひとを訪ね、その話を聞いた。
「えーっと、品川っていうとトクちゃんのおくさんかい? 多恵さんだったかな」
「あ、あんときもせわになったよなあ。多恵ちゃんもずいぶん元気になったよ」
「そうか、よかったな」
「ずっとだんなのいない祭りなんが見たくもないっていってたけど、今はもうこっちの秋の祭りにも顔見せにくるようになったよ。今でもさびしいことはさびしいらしいけど、気持ちは落ち着いてきたみたいだ。あんときジロさんにいろいろ気持ちを聞いてもらってよかったって言ってたよ」
いや、多恵は自分のちからでつらい想いの底を蹴ってうかんできたのだ。
祭り好きの夫を胃がんで亡くした多恵は、お囃子の音を聞くだけで涙が出ると言った。夫婦いっしょにお神輿担ぐ夢をみて、目が覚めると夫はいない。自分を連れずにひとりでいったいどこの祭りへ行ってるのか、と腹がたった。次の瞬間、ああ、あのひとはもうどこの神輿も担げなくなったんだと思う。でもまた次の日、夢のなかで夫は背中の刺青をみせて神輿を担ぐ。そんなくり返しのなかで、夫がもうどこにもいないのだと多恵が納得するまで、やはり時間はかかった。そして納得してもなお、多恵の想いは揺りもどしのようにこころを震わせ、またどこにもいない夫を捜し求めることになるかもしれない。それは誰にもわからないことだ。
「あのさ、実は多恵ちゃんからの頼みなんだよ、今度の件は。……昔、俺とトクが東京でえれえ世話になった孝蔵さんていうひとが、去年の夏に亡くなったっていってただろう?」
「ああ、大工だったひとのこと?」
「そう。いいひとだったんだよ、ほんとに。現場じゃきびしかったけど、気風がよくて面倒見もよくてさ」
「江戸っ子だね」
「そのとおり。でもって祭りも好きでさ、太鼓がまたうまかったんだ。いなせだったな。トクも俺もずいぶん可愛がってもらったんだよ……ま、俺はいっぱい心配もかけたけどな奥さんもトクが逝っちまったあと、多恵ちゃんのこと、そりゃあ親身になってくれたんだ」
「その夫婦、前に一人息子を亡くしたって聞いたような気がするな」
「ああ、おぼえててくれたんだ……」
急に勉の声が小さくなる。
「純ちゃんが死んだときは……おれも東京までいったんだけど、あの葬式はほんとたまんなかったなあ」
勉はコーヒーカップに目を落として、残りを飲み干すとまたため息をついた。
「……おれはこっちに帰っちまったからほんとに小さいときしか会ってねえんだけど、トクはずっと純ちゃんのこと見てたからなあ。トクが一番大泣きして荒れてなあ。大きくなったらいっしょに神輿担ごうなっていってたのに、なんで俺が純ちゃんの棺桶、担ぐことになるんだって泣きわめいて……なにしろたいへんだった」
その話は多恵からも何度も聞いた。話すたびに多恵は涙を流した。
「じゃその奥さん、今度はまるっきりひとりになったわけか」
「そうそう、ジロさんは話がはやくていいや。話を聞いてやってほしい相手っていうのがその奥さんで、沢村志津さんていうんだ。だいぶ前のやつだけど写真持ってきたよ。純ちゃんの法事のときトクが撮ってくれたやつだ。親戚が少ないひとたちでさ、俺たちのことも呼んでくれたんだよ。志津さんの隣りにいるのが孝蔵さんさ」
喪服姿の夫婦を見る。目の大きな小柄な妻の首が大柄な夫の分厚い胸のあたりにかすかに傾いていている。
「へー、いい夫婦だな。奥さん、目が印象的なひとだね」
「ああ、実物はもっといいよ。昔はさあ、生き生きしてるっていうのかなあ、なんかいつも楽しいこと探してるみたいな目だったよ。多恵ちゃんが電話してきて、その目が前と違うって言うんだよ。最近の志津さんは見た目は元気そうでも、なんか危うい感じがしてなんないんだってさ。だからジロさんに頼んでみてくれって」
「うーん。そんなに頼りにされても会ってみなきゃわかんないことだよ。で、品川のどこに住んでんの?」
「大井町とのあいだだよ。これ連絡先」
「そうか、わかった。えーっと、大井町ねえ。一人住まいなんだろう?」
勉のギクシャクとした金釘流の字の連なるメモを見ながら次郎は地図のページを繰る。
「うん……孝蔵さんが建てたあの家にひとりぼっちでいるんだよなあ、志津さんは……ね、引き受けてくれるかい、ジロさん? あいてる日あるかい?」
「ああ、俺はいいよ。引き受けた。ほかならぬ勉チャンの頼みだもん。ただ、できれば火曜がいいな。藤太のお迎えがないからな。で、むこうはこのこと納得してるのかい? タダじゃないこともさ」
「いや、料金は俺と多恵ちゃんで出す。俺たちそれくらい世話になったんだよ。ジロさんに行ってもらえたら、ほんと、ありがてえんだよ。……ああ、ほっとしたよ。俺、孝蔵さんもトクもきっとあっちで志津さんのこと心配してると思うんだよ。俺に、なんとかしろって言ってるような気がして落ち着かなかったんだ。よかったよかった。……じゃ今晩多恵ちゃんに電話して、詳しいことを志津さんに説明しといてもらうよ」
背中を見せて肩口でひらひらと手を振りながら勉は出て行った。勉がいた場所に薄闇が広がって、足元から冷えが上ってくる。そろそろ日が暮れ始めるようだ。注文品の納期も近い。もうひとふんばりするか、と呟きながら次郎は工房のあかりを灯した。
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