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ざつぼくりん 24「透明ランナーⅢ」
僕は小学校三年の夏休みをまるまる純一の家で過ごした。
母が病気で入院した。詳しい病名は知らされてなかったが、たちのよいものではなかった。このときが最初の入院だった。家のことは一切母にまかせっきりだった父は途方にくれた。
万事入院している母に指示を仰ぐ始末だった。母の言葉に従って、弟は小さいから母方の祖母の家に行き、僕は夏休みのあいだだけ純一のところにあずかってもらった。
「純一はひとりっこだから、時ちゃんが来てくれたらさびしくなくていいわ」
志津さんはそう言ってくれた。その言葉に甘えて、そのあとも何度か預かってもらうことになる。
小さなリュックに宿題と漫画本とゲームとクレヨンを入れて、着替えの入った手提げと虫採り網を持って部屋を出ようとしたら父が呼び止めた。
「忘れ物だ。かあさんが出かけるときはかならず帽子をかぶっていくようにって言ってたぞ」
そう言ってジャイアンツマークのついた野球帽をかぶせてくれた。それからかがんで僕の目を見て「時生、大丈夫か?」と訊いた。
眼鏡の奥の父の瞳に不安そうな顔をしている僕が映っていた。質問した父の姿も同じように不安そうに見えた。これから先のことを一番不安に思っていたのは父だったのかもしれない。うまく言葉が出てこなくて僕は「うん」と答えた。父は黙って頷いた。
そのとき、僕は、ほんとうはさびしくてこころぼそかった。ずっと弟にばかり神経を使って毎日忙しい母を見ていた。「おにいちゃんだから」という母の言葉が僕を縛っていた。ずいぶんたくさんのことを我慢してきたのに、それなのに母は僕を置いて病院へ行ってしまった。
今にも破裂しそうな風船を抱えているような気分で外に出ると、団地の入り口で純一が待っていてくれた。僕に気づくと笑顔になって、すっと右手を上げて駆けてきた。「もってやるよ」と言って手提げをもってくれた。
ふたりで競争して坂道を走って下った。純一の汗がにじんだ白いTシャツの背中見て走っていると、なんだかすーっとこころが軽くなった。どこかでおにいちゃんではない自分にほっとしていた。
そのあとも、外で遊ぶとき、あいつはひなたの道を大きな体でいつも僕の前を走っていた。自転車に乗れるようになってもあいつがたちこぎする背中をみて走った。
僕はあいつの後ろを走るのが好きだった。あいつのがっちりした背中を見ていると、いつもなんとなく安心できたのは、あの夏の日のことが記憶の底に残っていたからかもしれない。
坂道を下ると木戸の前で志津さんが待っていてくれた。
「おかあさんは大丈夫だからね、おりこうにして待ってようね」
そう言って志津さんは僕の肩を抱いた。僕は黙って頷いた。
その日は夕方のまだ明るいうちに、早く仕事の終わった孝蔵さんと純一と三人で銭湯へ行った。孝蔵さんの履く下駄の音が小気味よく通りに響いた。
商店街の店主や行き会うひとから声かけられた。自転車乗っているひとや車に乗っているひとがわざわざ止めて呼んだこともあった。どのひとも孝蔵さんを「こうちゃん」と呼んだ。
「こうちゃん、風呂かい?」
「おお、今日は早あがりだ」
「おや、ひとり多いんじゃないかい、ひょっとして内緒の子かい?」
「ばかやろー、純一のつれで、時ちゃんてんだ」
「そうかい、時ちゃんかい、よろしくなー」
そんなおとなの会話に自分が出てきて「よろしくなー」と言われて緊張しながらも一人前に扱ってもらっている自分が誇らしかった。
浴室に響くカコーンカコーンという音を聞きながら、タイル張りの大きな熱い湯船に三人で入っていたら、「ちわっす」と挨拶するひとがいた。
「じゅんちゃん、久しぶりだな。元気だったかい?」と純一に声をかけながら寄ってくるそのひとの背中に刺青があった。
僕はぽかんと見とれた。ものすごくきれいだと思った。模様はよくわからなかったが、引き締まった背中が鮮やかな青と赤に染まっていた。
「トクさん、この子、ともだちの時ちゃんだよ」と、純一が僕を紹介した。
「時ちゃんかい、よろしくな。今度の祭りに純ちゃんといっしょにおいでよ」
そう言われて僕は、その言葉とお湯の温度と刺青にふわふわとのぼせてしまった。
孝蔵さんの体は逞しかった。仕事が身体を作る。筋肉質でバランスがよかった。ちからこぶを作ってみせてくれたりした。
「すごーい」と驚いていると純一も負けずにちからこぶを作ってみせる。ちいさなちからこぶが遠慮がちに盛り上がった。「はは、かわいいもんだ」と孝蔵さんは笑った。
盛大に泡をたてて背中洗ってもらい、それを流していると、孝蔵さんが急に笑い出した。笑いながら立ち上がって鏡の前で「おめえら、ちょっとここに並んで立ってみな」と僕らを呼んだ。
言われたように立ってみると「時ちゃんはむこうむきで」と注文をつける。僕がむこうをむくと孝蔵さんはますます笑う。「とうさん、いったいなんなんだよー」と苛立った声で純一が聞いた。
すると孝蔵さんは「ここをよーく見てみな」と指差して言う。振り返って鏡をみたら、純一のおへその右横にほくろがあって、僕の腰にも同じ高さのところにほくろがあった。
「あー、裏表でおんなじところにほくろがあるー」と驚いていると、孝蔵さんがうれしそうに「なっ? こりゃあおめえらが義兄弟っていうしるしだな」とひとり勝手に決めてしまう。純一は照れくさそうに笑っていた。
脱衣場で「さあ、飲め、かためのコーヒー牛乳だ」と言いながら壜を手渡した。扇風機にあたりながら三人で飲んだコーヒー牛乳は甘くて美味しかった。
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