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ざつぼくりん 56「わたこⅣ」
「こうじぃー」
人気のない夜の公園に吹く風に混じって、多樹の声が響く。絹子はその近くの暗がりにまぎれて、いささか息を切らしながら、耳をすましている。
多樹は絹子がトイレに行っている隙に家を出た。十時を少し過ぎていた。気がつくと「わたこ」もいないし懐中電灯もなかった。見事に姿を消した。
絹子は前もって事情を説明しておいたカンさんに電話で沙樹の番をお願いした。電話口で「してやられました」という絹子にカンさんは静かな声で答えた。
「いやあ、いいですね。実に多樹さんらしい。その底にあるこころねのうつくしいこと……柳の木の下っていうのがまたいいですねえ。古来から中国では、友人との別れの際、無事の再会を願って、柳の枝を輪にして贈ったと言われてるくらいですから、きっと会えますとも。……夜の公園にできればあたしもごいっしょしたいくらいです。あたしも孝蔵さんにお会いしたいです。絹子さん、今晩のことはあとで詳しく話してくださいよ」
カンさんには預けてある鍵で入ってもらうことにして、時生への簡単なメモを残し、絹子はいそいで多樹の後を追って夜の町に出た。思いのほか風がきつく吹いていた。多樹がどんな格好ででかけたのか気になってくる。寒がってないかしらと心配になる。公園に続く道すがら、向かい風に髪を乱しながら、街頭の灯りの下を多樹は何を思ってひとり歩いたのだろう。いや、「わたこ」とふたりか。多樹はリュックのなかの「わたこ」にどんな話をしたのだろう。「わたこ」を励ますことで自分を励ましていたにちがいない。
次々に湧いてくるそんな思いを抱きながら。絹子は急な坂道になっている公園の手前の折れ曲がった道を一気に駆け上がってきたのだった。公園の入り口に立つ大きな柳の木の下に多樹はいた。その傍らに志津もいた。他に人影は見えない。
水銀灯の淡い光をその身にまぶされた多樹と志津は、手を繋ぎ、空を見上げていた。多樹はリュックから「わたこ」を出したらしく反対の手に抱えている。「わたこ」の毛の白がぼうっとあやしく浮き出て見える。オンにしてもらった「わたこ」が出す機械音が風の音と張り合うように大きく聞こえる。
「こうじぃー。聞こえるー? 多樹だよー。わたこもいるよー」
繋いでいた手をほどいて多樹は「わたこ」を頭の上にさしあげる。
「孝蔵さーん、孝蔵さーん。志津ですよー」
「こうじぃー、すーっとここまで飛んできてちょうだーい」
「孝蔵さーん。会いにきてちょうだいー」
ふたりがかわるがわる孝蔵の名前を呼ぶ。こんなふうにしてこれまで何度その名を呼んできたのだろう。どれだけ呼んだらその声が相手に届くのだろう。
突然多樹が泣き声になった。
「ふー……こうじぃー。ごめんね……こうじぃんちのこどもにならなくて……ごめんねー。……こうじぃんちのこどもになってたら……こうじぃは……生きててくれたかもしれないのにー。……ほんとにほんとに……ごめんなさーい」
志津の息を飲む音が聞こえる。
「まあ、多樹ちゃん、それは違うわよ。そんなこと言っちゃだめよ。そんなこと言ったらこうじぃに叱られるよ。こうじぃはねえ、ほんのちょっと多樹ちゃんの顔を見ているだけでも、ものすごくうれしかったのよ」
志津が多樹の頭を撫でながら優しく諭す。それでも多樹の涙は止まらない。
「でも、とうさんのこと……よわむしでかわいそうだからって言ったけど……ほんとはこうじぃのほうがもっとかわいそうだった……ぜーぜー言ってかわいそうだった……」
「……そうね、こうじぃはくるしそうだったわね。でもがんばって生きててくれたのよね」
志津は多樹の肩を抱く。言葉のないふたりの頬に涙が光る。ふたりの頭上では、深い藍色の空にせわしく雲が走っていた。強い風が雲を遠く押しやるとほっかり月が現れ、月の光は公園をやわらかく抱きかかえるように包み込む。一日の仕事を終えたベンチや遊戯がその濡れたようなひかりに癒されているように見えた。
その光になかで、青々とした葉を衣装のようにまとった柳の枝が激しく舞う。空気を切る不連続な鋭い音を立てて、命あるもののように、弾み、跳ね上がり、回転し、まき戻る。柳の枝が揺れるさまは少女のダンスのようだと誰かが言っていたが、夜の闇に切り目を入れるようなそのシャープな舞いは、絹子にはなにかしら神々しいものに捧げられた儀式のように見えた。
またふっと月が翳った。風が雲を運んできたらしい。それに気づいて多樹が顔をあげる。月を飲み込んだ雲は縁が明るくその形をくっきり見せる。その雲を指差して多樹が大きな声を出した。
「あー、こうじぃだ。ほら、しずばあ、あそこにこうじぃがいる」
その雲の形は孝蔵の頭に似て見えた。見覚えのある丸みだった。にこやかな眼窩に見えるところもあり、「待たせたな」とでも言っているような口元も見えた。
「ああ、ほんとうに、孝蔵さんだわ。多樹ちゃん、こうじぃがきてくれたのね」
待ち焦がれたふたりの顔が輝く。しかし、雲は気まぐれですばやくその形を変える。孝蔵に似た雲は月から離れるとあわあわとその顔を崩した。ふたりの視線は落胆しつつその雲を追う。
「あ、わたこだ、こうじぃがわたこになった」
多樹が言うように、雲は耳の尖ったねこの顔になっていた。あたかもふわふわとした毛に覆われているようにも見える。
「あらあら、ほんとに」
するとそれまで声をあげなかったわたこが呼ばれたと思ったのかぐるぐると咽喉を鳴らしはじめた。その声がふたりの緊張を解く。
「ふふふ、こうじぃ、来てくれたよね、しずばあ」
「ええ、ええ、そうだったわね、待たせたな、って言ってたわね」
「うん、それから、こうじぃ、わたこになったね」
「ええ、ふわふわのわたこになったわね」
「そうだ、こうじぃはわたこになったんだ、ね、わたこ」
そういうと多樹はいとおしげに「わたこ」の背を撫でた。多樹の手のなかで、自分の体の隅々を確かめるように「わたこ」はカクカクと動き、「にゃおおん」と鳴いた。絹子にはその声が孝蔵の口癖の「ばかやろう」と聞こえた。
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