ふびんや 7「ちりめんのしぼ Ⅳ」
店のガラス戸を軽く叩く音がした。店の奥で鞠子さんの着物を作る算段をしていたひなが目を上げると、あかねが表に立っているのがガラス越しに見えた。入るように手招きすると、ちょこんと頭を下げてあかねが入ってきた。手にはいつもの重箱があった。
「あ、さっきは茸ご飯ありがとう。美味しかった」
「ふふ、ほんと? 味、薄かったんじゃないの?」
「そのほうがいいのよ。どうもどうも。いつもたすかってまーす」
そう言ってあかねはひなのいる店の奥の畳にあがり、重箱を手渡す。そしていつものように階段箪笥に背中をあずけて、ジーンズにくるまれた真っ直ぐな足を伸ばして座る。ひなも足を伸ばし並んで座る。ふたりの重みで箪笥の金具がカタカタカタと音を立てる。
「おばさんのリハビリ、どう?」
症状の落ち着いた摂は、救急で入った病院のリハビリ科に移っている。
「うーん、最初はいやがってたけど、だんだん慣れてきて、なんか元気になったよ。負けん気で生きてるようなとこがあるひとだからさ。でも、時々うまくいかないとじれちゃってイライラするのよね。江戸っ子だからさ、気が短くてさ。そのとばっちりはいつもわたしにくるからねえ。まいるわ」
「そうねえ。じゃ、うちの母をいかせようか。あのひとは京おんなだからね、何言っても、のれんに腕押しだからさ」
「ふふ、まあ、ひなちゃんはひなちゃんでたいへんだろうけどね……あれ、あの着物地、きれいな色ね。なに作るの?」
「キューピーさんの着物」
「へー、そんな仕事もしてるんだ」
「うううん。ひとり暮らしのおばあさんに頼まれちゃったんだけどさ、こんな大きさはじめてだからさ、いろいろ考えてるわけ」
ひなは生地を手にとってあかねに見せる。
「あのさ、おなかでてるよね、キューピーさんて。どんなかっこになるんだろうね……あ、これってちりめんっていうんでしょう?」
「そう。このぽつぽつしてるのを『しぼ』っていうの」
「ふーん、『しぼ』ねえ」
ちりめんは織りに特徴があるねんで、と糸繰りの仕事していたチサが言っていた。まっすぐの経糸(たていと)、強い撚りをかけた緯糸(よこいと)を交互に織り込むのだが、その緯糸の拠りは三千回ほどねじってあるらしい。それを生地にして精練すると糸が収縮して、緯糸の撚りがもどって生地全面に細かい凸凹状のしぼができるのだという。
「京都のおばあちゃんが言ってたんだけど、真っ直ぐでなんのねじれもないひとには人生のしぼがないって。すごくつらい目にあって、気持ちがねじれてねじれてしまうんだけど、それでも真っ直ぐな人生になろうとしてるひとに、きれいなしぼができるんだって」
「へー、そうなんだ。なんか深いね。素敵だなあ」
「それはおばあちゃんの勝手な考えだからね。きっと、哀れな孫であるわたしへの励ましだったんだろうと思うよ……しぼの大きなちりめんを見るとその言葉を思い出すの」
「きっとわたしも思い出すよ。なんか、いいおばあさんだったんだね」
いいおばあさんだったのか、とひなは振り返る。母との諍いでチサが言い放った尖った言葉もまたひなの記憶には深く刻まれている。
「うーん、それはどうかな、けっこう気の強いおばあさんだったよ。うちはほら、父とのいざこざがあったからねえ。」
「まあねえ、おんなも年齢を重ねると強くなるわ。けどひなちゃんのおかあさんはなんかいつまでも少女みたいなとこ、あるよね」
「ふふ、だよねー」
あかねとは近くなったり遠くなったりした十年の付き合いだったが、今もふっとした拍子に肩をぶつけて笑いあった時代に戻る。足の悪い転校生のひなはこの笑顔に助けてもらった。ふたりの笑い声でまた階段箪笥の金具が鳴る。
呼応するように、幾時代かの時を刻んできたのであろう大きな柱時計がひとつ鳴る。鈍い音だ。針は八時半を指している。
「ね、ひなちゃん、しぼってさ、思う、慕うって漢字を当てたら、なんかすごくよくない?」
「ああ、そうねえ。ちりめんの思慕かあ。なんか色っぽい」
「実はちりめんじゃこの思慕だったりして」
「やだもー。あかねちゃんたらー」
思慕はあかねの胸にあるはずだ。彼氏ができたと言っていた。アルゼンチンのひとらしいが詳しいことはまだ聞いてはいない。
「ね、彼氏とはどうなの?」
「……うーん、かあさんがこうだからさ、ちょっと……」
「おばさんが倒れたことに、責任感じてるの?」
「感じてないっていったらウソになる……」
「うーん。むずかしいねえ」
ふたりが黙り込んだところへ「ひな、どうえ。着物、なんとかなりそうか?」と言いながらあずがでてきた。風呂から上がってきたあずは後れ毛が濡れ、ほおが上気している。
「ああ、あかねちゃん、きてたん」
「おばさん、夕飯、ごちそうさまでした」
「おそまつさんでした。摂さん、どうえ」
「なんとか。もう大丈夫なんで、今度、リハビリのはっぱかけにきてください」
「いやや、そんなたいそうなこと。ひとさんにはっぱなんか、かけられへんわ」
「あかねちゃん、母は普通に励ますのがへたよ。にこにこしてるのはうまいんだけどね」
「あんた、親にむかってそんな言いかたはないやろ」
あかねが噴出す。その笑顔をみながらあずが思い出したように聞く。
「あかねちゃん、恋のほうはどうなってるのん?」
「えっ?」
「ひなに聞いたんやけど、お相手はアルゼンチンのおひとなんやろ?」
あかねがちらとひなを見る。ひなは片手で拝むような格好をしてウインクをする。
「ええ、まあ……」
「ひなはそそのかすようなこと言っちゃだめだよっていうねんけど、あかねちゃん、あきらめたらあかんわ。自分がすきになったんやったら親がなんといおうと貫かんとあかんわ」
ひなは、ちからをこめて語るあずの化粧気のない顔に、別れの日のチセの悲しげな顔を重ねてみる。蛍光灯のひかりが作る影がふたりを似せて見せる。