そんな日の東京アーカイブ 新宿2007年の写真展
新宿2丁目へ行った。 その地名のイメージはなんだかあやしく。
なにしろ不案内の場所で、いただいたご案内の葉書の地図を縦にしたり横にしたりして、大きな通りから奥にはいっていくと、夜開く小さなお店がせせこましく建ち並んでいて、にわか迷子のわたしの心臓も、なんだかあやしくドキドキしたりするのだった。
「芸術状物質の謎4」と題された写真展をひらいているのは、写真家飯村昭彦氏。
ちくま文庫「路上観察学入門」の273ページに、麻布谷町の銭湯に煙突の一番上に昇って、差上げたカメラがとらえた写真のなかに、氏が写っている。そう、あのひとだ。
煙突の拓本を取って来たりもしているからすごい。
へー、そうか、そうなんだ、そういうのってありなんだ、なんてあとから頷くのは簡単だけど、それをいっとう初めに思いつくのがすごい。
氏の写真をどんなふうに説明すればいいのか、とずっと思案しているのだが・・・。
たとえば電柱やボードに貼られた貼り紙。何度も貼られ剥がされ又貼られる。その繰り返しのなかで 、剥がし残されたものが積み重なって、さまざな色や文様を作る。
新しかったものもいつか傷み古び壊れて、朽ち果てていく。そのさびつき崩れいく「もの」のわびさび。
飯村氏が切り取るそれらの「もの」の風貌はおもいがけず、MOMA美術館においてみたいようなある種の美をたたえている。
老いたひとのシワの一本一本に、来し方が刻まれているように、写真のなかのよごれや傷には、そこにいたるまでの時間が内包されている。
一瞬を切り取りながら、継続する時間を表現する。その前にたった人間の「今」は 一枚の写真のなかでらせんの時を遡る。
今ここにあって、やがてなくなってしまう。そんな当たり前の繰り返しを記憶にとどめる写真が
小さな会場にある。どの一枚にも人間は写っていないのに、ひとの暮らし、ひとのおこないが写りこんで、その存在が仄見える。それは文章作法にも通じることのようにも思えてくる。
会場となった広洋舎ビルというのも、なかなかに味わい深い建物で、階段脇の壁には隙間なくポスターやチラシが貼られていた。
それを写メで撮っていると飯島さんが 「ドアのうしろにいいのがあるんだ」という。
どれどれと開け放ったままのドアの後ろを確かめると 、細いものを剥がしたあとがいくつか並んでいた。これがいいのかわるいのかよくわからないが、とりあえずシャッターを押して、飯島さんに確かめた。
「なんか俳句とか3行詩みたいでしょ?」
飯島さんはにこやかにそんなことを言う。
なるほどそう見えるのかあ、なんだか愉快だなあ
、とまた後付けで納得する。「三行半だったりして」 なんて思いついたことを言ってみたりもした。
飯村さんの作品を見た後は、自分もどこか「飯島目線」になっていて、新宿の町のふるびたものについつい目が行き、ほほうーと感心したりする。
傷んではいるが、ふるびかたが足りないと、「まだまだ未熟」などと思ったりする。
写真展の場所は新宿2丁目12-9のちょっとあやしいビルの3階。