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MRI


 
  悪性腫瘍で顎の骨を切り取る手術をしたのち、再発はないが、毎年MRIかCT、アイソトープを使った骨の検査を行っている。

恒例となってしまった頭部MRI検査の日。加齢とともに、これがなかなかにこたえるようになってきた。

頭を固定されてドームのなかに、火葬場の棺のように突っ込まれて、カチカチジージーという音を聞きながらの一時間。これは拷問に近い。

いったい、いまさらわたしになにを吐けと言われるか、と愚痴りたくなる。そんな秘密はありませんよ。
 
ドームのなかでは、目の前に白いプラスティックの固定具が見えるだけだ。迫り来るようにも感じる。仕方なしに目を閉じる。

扉の向こう側のまだ若い検査技師の義務的な声が唐突に「はい、はじめます」と告げる。

やはりドキドキする。なにやら細かい説明もされるが、うわのそらだ。

検査が始まると、かちかちジージーという妙な機械音が耳そばで聞こえてくる。これがえらく大きく響く。それなのに、その騒音のなかで眠ってしまう。いや眠ると言うより、しばし意識がなくなるという感じだ。

「はい、頭を動かさないでリラックスしてください」という検査技師の声に心臓がビクンとして意識が戻る。戻ってはじめて、眠っていたのかと気付く。

意識が戻ると頭から血が引いていく感じがする。
足先のほうがどくどくする。身体のなかで血液が混乱して行き先を迷っているようだ。

そう言われても、頭を動かさずにどうやってリラックスできるのというんだ、と唸りたくなる。「お楽に」とだけ言ってくれればいいんだ、と恨めしく思ったりする。

いやいや、そんなぞんざいな言い方をして、あの検査技師を怒らせて、ここから出してもらえなくなったら怖いことになる。それは生きながら棺おけに入れられてしまう恐怖のごとく、想像するだけで気が遠くなる。

じっとしているということはなんと辛いことだろう。鼻の頭だとか頬だとかかゆくなってもかけないし、つばも飲み込めないし、 ホールドされてるところが痛み出してもいかんともしがたい。

「次は七分続く検査です」と言われる。この七分の長いこと。チキンラーメンの三分も長いかもしれないがかちかちジージーの七分も永遠に近い七分のように思われたりする。

同じくMRIをうけた人が、なにか事故が起こって、検査技師がいなくなってしまったら自分はどうなるのか不安でしょうがない、と言っていた。

実際看護婦がなかなか助け出しに来てくれなくて、それ以来、閉所恐怖症気味なのだというひともいる。

がっしりとした身体できびきびと動く検査技師は、職場放棄することもなく「おつかれさまでした」と終了を告げた。よくよく眺めてみれば愛嬌のある顔だ。検査が終わってはじめて気付くとは、よほど余裕がなかったとみえる。

ゆっくりと起き上がったつもりなのに、くらっとくる。うつむいて、頭を低くして時を待つ。どこか遠いところへ行っていた自分の意識が、この世界に帰り着くために必要な時間だなと思う。
人間に戻る儀式かもしれない。

ロッカーに着替えに戻る途中、検査室をちらとのぞくと、検査機器に輪切りにされたわたし自身の頭骸骨のなかのありようが裏からの光を浴びて浮かび上がっていた。

この検査でなにが見つかっても引き受けていくしかないと覚悟しながらも、この皮膚の下でどんなことが起こっているだろうという不安はいつでも消えては生まれる。

黒の濃淡で表された私自身がそこにいる。左顎のないわたし。欠けたところは欠けたまま映る。丸く切り取られた画像のなかのわたし。ああ、そうです。あれがほんとうのわたしです、と思う。

ロッカーの扉の裏の小さな鏡に映る自分の顔を見つめる。普段は顎のない部分には目立たぬよう
肌色のテーピングテープを張っている。テープのなかにあるのは空洞。そこにはあるべきはずのものがない。

その空洞のなかに異形として生きてきた
自分の十年間の思いがうずくまっている。

鏡に切り取られたわたしは恨めしげにこちらを睨んでいる。ひとの視線との戦いもあるが、逃れようのない現実は鏡のなかから戦いを挑んでくる。
毎朝この顔を向かいあい、自分を受けいれる。

目に力を込めて深呼吸をした。そして、ことさらにゆっくりおおきな笑みを作った。鏡のなかのわたしはいつものように能天気に笑っていた。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️