そんな日の東京アーカイブ 尾山台 すごいおやじがいたもんだ。
大井町線の尾山台駅近くにあった「田園」というお店のおやじさんのこと。今は弟子だった安齋さんが「田園 安齋」として営業されているそうだ。
安齋さんは実直そうなひとだった。栃木のかただったろうか。髪の毛で文句言われたくないから、坊主にしてんだよ、って言ってたな、なんて思い出す。
お店では砂糖を一切使わないっておやじさんはいってたけど、甘みが欲しい時はほんの少しだけど、寿司の素の粉末を入れることがあるんだよ、とこっそり教えてくれたのも安齋さんだった。
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今日は酩酊である。数少ない行きつけのお店で美味しいお酒高清水の稲波を冷やでいただいた。
これがまことにお行儀のよいお酒で ひとくちいただくと、体が喜び、体の奥から深いため息が出て
左手の手のひらで己がひたいをぱちんとはじきたくなるそんなうれしい邂逅だった。
そのお酒を一升瓶から注いでくれたのがこの店の店主だ。
今日は夕方からの大雨で、客があたしと友人を入れて4組しかなかったので、店主がじっくり腰を落ち着けて話をしてくれた。
なにしろ酩酊なのでどうも頭が動かない。思い出せないこともあるが、それでもラフでも、今書いておかないと、永遠に思い出せないことになりそうなので書いておく。
この店主は飛行機乗りだった。片道の燃料しか搭載せず飛び立っていくあの部隊に所属していた。そのひとが今ここに生きている。
早稲田の講堂で出口が二つあって、片方に出れば海軍、反対は陸軍に配備されることになっていた。店主は陸軍を選んだが、海軍を選んだひとはほどんど亡くなったそうだ。
飛行機乗りにもテストがあって成績順に配備先が決まる。店主は101番だった。成績のいいひとたちは沖縄などに配備されほとんど亡くなった。店主は偵察隊だった。
戦闘機は下からの攻撃に弱い。敵の弾は機の下から店主の股間を抉り、操縦桿を握る右手首に刺さった。 それでも店主は生き残った。
が、戦後、その隊の人間は社会から狩られる対象だった。 だからきちんとした会社に入れないので松竹にはいったのだという。
そこで脚本部に入って進藤兼人の弟子になった。
2年後輩に橋田須賀子がいた。店主はその女性が大きらいだったという。嫌なやつだったよ、と。
そこで店主は若き助監督たちに出会う。大島渚や篠田が店主の下宿にたむろしていた。マージャン仲間でよく誘われたのだが、あるとき今日は帰るといって電車に乗ったら、その仲間が追いかけてきて、途中の駅で引きずり下ろされてしまった。
そのときは文句を言ったが、あとでその電車が事故を起こしたことを知る。 電車の一番前に乗っていたので 、たぶんそのままだったら死んでいただろう。
何度命拾いをしてきたのだろう。
それにしても、出会ったひとがすごい。 小津安二郎の名も出た。 ほかには、志賀直哉、太宰治、三島由紀夫。伝説のひとばかり。
太宰治は喧嘩の弱いやつだった。やつはヒロポン中毒だったから。
居酒屋にいた詰襟のやつに奢ってやるって言ったら、そいつは「僕はけっこうです」って気取って言いやがった。それが三島由紀夫だった。
志賀直哉はハンサムだったでしょう?と聞くと
いや、一番は丹羽文雄だという。生島治郎もいいですよね、というと今いいのは大沢在昌だという。なんとなく好みがわかる。
のちに相撲の親方夫人になるひとがここでバイトをしてたこともあるらしい。褒め言葉ではかたられなかったが。
それから・・・今四人いる恋人の話。 一番若いゆうこちゃんがそれはそれはかわいいらしい。
「あ~、こんなこと言ってたら電話したくなっちゃった!」 とぬけっと言う。
「恋人はイマジネーション 愛人は体温」
なんてことも言った。
酒にも酔ったが店主の話にも酔わせてもらった。 生き抜くとはこういうことだ。
すげえおやじがいたもんだ。