そんな日のアーカイブ 17 2004年の小説家 重松清
「ため口の季節」 講義録
「ため」というのは同年輩、あるいは同じくらいの歳ということであり「ため口」というのは対等にしゃべる、敬語を使わないということである。対等以外のしゃべり方を知らない季節が青春なのではないか。
(重松氏自身は週刊誌で芸能界の書き捨てのような記事を十数年書いてきた。日本・近代・文学を体系だてて勉強してきてはいない。そんな自分が語るのは僭越だが、と前置きして)
青春がいつからいつまでだったのかはわからない。まだ尾がついているのか、ガキなのか、もうおじさんなのかがわからない。
青春が始まったのがいつか、と区切りをつけさせてもらうとしたら十八歳で家を出て東京の大学は行った時だろう。日本育英会、早稲田大学大隈奨学金をもらい、仕送りなしに生活した。
山口県から出てきた自分は
「わしゃあ、今青春じゃけー。わしゃあ、今輝いとるかもしれんのう」
と思っていた。
20歳のとき、坪内逍遥が作った「早稲田文学」という雑誌のお手伝いをした。その初仕事が川本三郎氏が早稲田大学でした講演記録を「早稲田文学」に載せることだった。
昭和58年当時川本氏は売り出し中の文芸評論家だったが、重松氏はその名も知らなかった。その講演記録にはちんぷんかんぷんの名前がやたら出てくるのだが、それでもやっててうれしかった。
すでに一家を成した作家を紹介するのではなく、ものづくりの青春期を送っている人たちの紹介だった。
島田雅彦の「優しいサヨクのための嬉遊曲」はおもしろい。森田芳光の「家族ゲーム」は斬新で、大友克洋の「AKIRA」もいい。80年代前半には海のものとも山のものともわからない人の今のおもしろさ。自分が今それを書いてるおもしろさを感じた。
80年代前半の最前線の話を聞いたことが大きかった。生まれたてホヤホヤの新しい創作を同じ時代を生きている若者として、こんなひとがいるのか、読んでみようかという気持ちになれたのは幸せなことだった。
青春小説、青春文学の定義とは何か?主人公が高校生だったら青春小説なのか。主人公の年齢、恋愛できまるのか。
コード進行にのっとっているものもある。
1978年 三田誠広が書いた「僕って何」という小説は青春小説の王道なのではないか。青春小説とは今ここにいる自分とはナンであるかを問いかける、失ったものを取り戻すものなのではないか。
三四郎の主人公は上京し、大きな町へひとりでやってくる。田舎では自分とはナンであるかが窮屈であるくらいわかりやすい。自分の居場所がそこにあるのだが、上京すると、生まれてから把握して形作ってきた「自分はなんであるか」が一回なくなってしまう。
東京のひとにとって三四郎の両親は知らないひとである。自分のことを何も知らない無数の他人に囲まれて生きていくことになる。田舎では秀才だったが東京では自分は全くめだたない。
今まで持っていた自分の自信が揺らぎ、迷える子羊になる。自分の居場所がわからなくなって途方にくれる。
佇んでいるだけでは小説は始まらないので主人公は歩き出す。一歩ずつ歩き始める。歩くと人と出会う。ひとつずつ世界を広げていく。自分とはちがう世界を生きてきたひととであってその世界を知る。
この世の中には自分の知らないことがたくさんある。現実はもっと厳しく汚れていると知っていく。別れによって成長する。
これの繰り返しのなかで自分とは何かという問いがキープされていくのが、青春小説の基本的なコード進行だと思う。
ベースに自分とは何であるかという問いかけがなければ、いくら登場人物が若くても、それは青春小説ではないのではないか。
「定年ゴジラ」という重松氏の作品は定年一年生の元銀行員の一年間を書いたものであるが、
これは青春小説のコード進行にのっとった初老小説である
定年までは自分の居場所があった。それがずっと続くと思っていたが、その立場を失ってみると、これまでの日常は意味がなくなる。なじみのない平日のニュータウンでどうやってひとと出会うのか。たいくつでつまらない街で、家をもつのが自分の人生なのだろうかと問いかける。
青春というのはため口の季節なんじゃないか。
仕事では上司、部下、客などいろいろな上下関係に基づいて話をする。台詞で上下関係がわかるのだが、ため口でおしゃべりが始まるとよくわからなくなる。4,5人になると誰の台詞だかわからなくなる。
一人を町内会長にしてニュアンスを加え、微妙な差をつけた。大阪弁もひとりいれた。3人以上がため口でウダウダしゃべる状況の台詞の書き分けはむずかしい。そのむずかしさが青春群像を描くむずかしさだ。
4,5人の青春物語の「それぞれの僕って何? 俺たちって何?」を描くのは魅力的だがむずかしい。
重松氏の「ビフォア・ラン」は3人の少年が主人公で、それぞれの青春を書いてみようという作品だ。主人公たちはため口だが、進路を東京の大学、地元の大学、就職に分けて書いた。
それぞれが役割や立場をしょわない対等のため口で、十把一絡でわちゃわちゃして、それぞれの僕って何?を考え続ける、探し続ける作品を一本書けたら、青春小説の王道を言っているといえるとおもう。
重松さんの作品には40歳代のおとうさんが主人公だったり、先生が主人公になっている作品が多い。これは青春小説ではない。
学校の先生も父親も自分の居場所があって、その居場所を問うている。父って何?夫って何?学校の先生って何?と問い直してみる小説である。自分とは何か。大人としての自分の居場所のなか、この立場この役割とはなにかを問いかけていく。
上京からはじまる物語に五木寛之の「青春の門」がある。故郷を出て行く小説で、筑豊編は早稲田に出て行くまでの話だ。
筑豊の子,伊吹信介は父母祖先を育んだ大地を蹴って、今ようやく全ての人間が一生に一度だけくぐりぬけようとする青春の門に入ろうとしていた、という、しがらみを断ち切って出て行く上京物語であり、都会にやってきて自分とは何かを考える物語である。
そこで恋愛というモチーフはなぜ必要なのか?
オリエとのセックスは親や先祖をはぐくんできた大地と別れを告げるのと同じである。その関係を切ることだ。その女の子と好きあい、抱き合うことは男と女の関係に変わっていくことだ。親の呪縛、故郷の呪縛を断ち切ることだ。
断ち切って繋ぐ、断ち切って繋ぐ。人間関係を結んで切ってを繰り返して成長して自分とはナンであるかを掴む。それをひっくり返され、また掴む。それを繰り返すのが青春なのかもしれない。
自分探し―― 80年代の終わりに女性がほんとうの自分ってどこにあるのかを探した。
自分回復―― 子供に帰りたがっている。
熟年離婚―― 夫婦の関係を断ち切って自分とは何であるかを考える、一種青春小説になる。
「坂の上の雲」―― 日本という国は、国家とはなんであるかと問い続けた。明治の日本を主人公にした壮大な青春小説かもしれない。司馬遼太郎の小説が若い人に人気があるのは司馬作品に流れている青春の自分探しにシンクロしているからではなないか。
断ち切り、放りだされて繋いでいく物語も青春の定義をどこに置くかで変わる。
自分とは何かを探す物語、それはたくさんあるのではないか。自分の居場所とは何かの問いもある。さまざまな小説の読み方書き方がある。
自分以外の何かになりたいという思いがある。
たとえば、うまれかわり、だったりペンネームだったり、匿名希望だったりする。それは今の自分を繋いでいる人間関係を忘れてしまえる場所や時間がほしい、ということだ。
インターネットの匿名性は発言の責任論だけでなく、自分以外のものになりたい、自分の背負っている属性を捨てたところでやってみたい
という欲求をみたす便利な場所である。
しかし、そもそもの自分がまだやわらかい時代に、ぽーんと自分以外の者になってしまうのは不安だなと思う。
今の自分とは何かを問う。それぞれの時代の青春物語があるのではないか。団塊の世代が定年になって仕事で得た自分を失ってしまう。子育てが終わったあとの女性のこころにぽっかり穴があいてしまう。
そこでもう一回問いなおしてみる。おばさんは結婚前の自分ってなんだろうと問いかける。団塊世代のおじさんたちも居場所を失った自分とは何かを問い直す。それは人生論でもあり、大きなテーマである。社会全体の命題でもあるだろう。
豊かになることだ。たくさんの本や映画、演劇、物語に触れてほしいと思う。今の自分とシンクロするものがたくさん見つかればいい。好きなものに夢中になることが青春時代の特権である。(できれば重松の本に夢中になってほしい)
夢中になるから、失望したり、裏切られたりする。痛い目にあって、チクショウ、サイテーと思いながら出会いと別れを繰り返していく。それができるうちは青春という物語を生きているのではないか。
それぞれひとりひとりが青春ものがたりの主人公を生きてください。