そんな日のアーカイブ 20 2005年の小説家 島田雅彦
「ジャパニーズ ウェイ オブ ラブ」
何べんでもいうが島田氏は男前だ。セルゲイなんて名前が似合いそうな男前だ。
本日は色あせたジーンズに生成りのジャケット。その下にナイキのマーク付きの鮮やかなオレンジのTシャツを着ていた。氏が年々自意識のようなものから開放されていってるような感じがするのは、この場になれてきたからかもしれない。いや、それどころか、本日は下ネタを含めて大いに笑いを取っていた。男前で笑いを取れれば鬼に金棒だ。
さても、12年に一度の周期で恋愛小説がベストセラーになるのだという。「セカチュー」とか「今会いにいきます」だとかが当たったその12年前には「ノルウエーの森」があった。島田氏もそれに便乗しようと思ったが、どこかハスに構えてはずしてしまったので12年後を待つことにしたそうだ。どこかハスに構えてしまうと自分で言ってしまうのがおもしろい。
さても恋愛にはどういうスケベ心が働いているのかの分析だ。島田氏は自身のことを「水とたんぱく質とスケベ心でできている」と言い切る。
脳科学者、生物学者、自然科学者にの本がベストセラーになるのはなぞめいたことを手っ取り早く解説してもらいたいし合理的に納得させてもらいたいからだ。
恋愛の当事者は「なぜ、わたしだけが・・」という被害者意識がある。そういう特異性のなかに自分を置きたがるのが恋の特徴ですらある。その解決を科学者に期待してもむくわれない。
科学者は個々の問題ではなく、類の問題として捕らえるからだ。
言ってみれはみもふたもない唯物的な方向に進んで、人類普遍の恋愛を考えてみる。
恋愛を科学的に検証するとすべては遺伝子で決定されコントロールされてると生物学者はいう。それではあまりに冷たいじゃないかと思う。努力も成果として現れてほしいから、小説家は妄想をその隙間に入れようとする。
メタファーとして一族のなかに受け継がれていった愛するものの運命、あるいは因縁は深くわれわれの行動を仕切っている。
人間の営みというのは、生まれてくることと死ぬことと子孫を作ることである。恋を子孫を残す営みのひとるとして位置づけ、どういう求愛行動をとるかは神話の大きなテーマである。
神話とは先祖の恋の流儀である。
ギリシャ神話に両性具有のティレシアスが出てくる。森で交尾する蛇のわっかに足を入れると女になり、別なときに同じことをすると男になるという人物である。
あるときゼウスが神々と男としてするのと女としてするのとどちらがいいのかの大論争をした。どちらか一方しかしらないから論争のしようがない。そこでティレシアスが呼ばれて聞かれた。ティレシアスは「女のほうが9倍いい」と答えた。それを聞いたゼウスの妻のヘラが怒ってティレシアスの目を見えなくしてしまった。かわいそうなのでゼウスは予言の力を授けた。
ゼウスは下半身のだらしない男で全知全能の力で相手を誘惑してやりたい放題だ。ヘラは道徳的な秩序を代表していて、公然とゼウスにたてつくことはできず、ヘラ自身はやりたい放題できないのに、9倍いいとはなにごとかとヒステリーをおこしてしまうのだ。
このことから一夫一婦制には無理があることがわかる。性別にはたいした意味はなく、かろやかに踏み越えていくものだ。
人類は高等な生物で哺乳類の完成形に近づいているのでそうコロコロと性は変えられないが
社会的な役割としての性は自由に変えられる。
生物学的なテーマは発生である、子供をどんなふうに作るのか、である。
進化のプロセスのなかで性は極めてあいまいなものである。クマノミという魚じゃ男が女に変わるし、カタツムリは両性具有だ。ショウジョウバエのオスに働く遺伝子のなかにサトリ遺伝子という突然変異体が発生した。そう名づけたのは山本という先生だ。普通オスはメスに求愛するが、このサトリ遺伝子が働くとオスはオスに求愛する。メスに興味を抱かなくなつのでサトリと名づけられた。
山本先生はこのサトリ遺伝子をメスにも注入してみた。するとそのメスはオスと同じ性行動をとった。積極的にオスに求愛した。
オスとメスの区別は便宜的なもので、どちらであっても問題はない。容易に変えられる。性は流動的なものであった。男女を区別するのは,服装や言動、立ち居振る舞い、趣味の性差でありそれは文化的な差である。生物的には変わらない。
進化の切実な要因というのに環境に適応するためというのがあるが、その進化のスピードは遅い。交尾がしやすくなつ進化のスピードは圧倒的に速い。
たとえば孔雀の羽は生存には不適なのだが、交尾させてもらえるように進化した。ただもてたいために尾羽だけを進化させたいかれたトリだ。ナイチンゲールの鳴き声がきれいなのも、もてたいためのものだ。
自分の生存を脅かすかもしれなくて、いちじるしく不利なのに、もてたいために進化させてしまう。では人間にとって孔雀の尾羽にあたるものはなにか。人類は何を洗練させ発達させてきたか。
5万年前、人類は突然変異で言語能力を獲得した。オプションとして言葉を求愛行動に生かせるようになった。
贈与を通じた求愛行動は洗練されているとは言いがたい。高度に洗練された求愛行動として、島田氏はキャバクラ嬢にグッチを買うより詩を読むのだという。
平安貴族の和歌しかりヨーロッパの吟遊詩人しかりである。
言葉はストレートに求愛行動に結びつく、本能に根ざした行動である。ならば恋愛小説は求愛行動の申し子であり、最ももてる男でなければならないはずであったが、求愛行動は多様性に飛んだものになっていってそうはいかなくなった。
それにおのおののレセプターの問題もあり、感じるツボの違いもある。キャバクラ嬢は詩を読みよりグッチのバッグを好んだりするのだ。
文学というものは言語化しにくフェロモンを表現するものである。フェロモンというのは無味無臭で、なんとなく感じるものであり、感じるひとにしか感じないものである。
美女と野獣とかその逆とか傍目からは不思議にみえる結びつきはみなフェロモンのせいであるかもしれない。
直感的な反応に忠実な行動をとることが恋愛にとって理想的だ。無意識に反応してしまうことが重要なポイントである。
今が楽しければいいというのは近視眼的な発想である。子孫を残すというのは未来に向けた投資であり、理性的な行動である。そういう理性もまた本能に組み込まれている。
それは林業のような考え方と同じである。ひとびとは子育てをし教育をする。それは見届けることのできない次世代へのリレーとなり、人類への貢献ともなる。個の時間軸でなく類の時間軸をともにひとは生きている。そういう未来を見据えた恋愛もある。
美男子と美女のひともうらやむ恵まれたカップルがいたとしたら、かれらは人類を代表して恵まれたカップルをしているのだから、という目でみれはいいことで、うらやましいと思うことはない。
もてるもてないの差もたいしたことではなく、人類の営々と続く営みに、幾分多めに貢献しているだけのことだ。
キリスト教の導入は、日本では不良の毒牙から身を守るものとして、あるいは良妻賢母を育て純潔を重んじる気風としてミッション系の学校などに植えつけられたが韓国では恋愛における自由を抑制してしまう重い儒教的な縛りを解き放つためにキリスト教に向かった。両方の位相が決定的に異なっている。
日本の性的ビヘイビアは江戸時代のものと明治以降のものが交互に繰り返されている。
明治以降は男性中心的カルチャーであり、江戸時代は女性的サブカルチャーのフリーセックスの時代である。250年の鎖国の間に磨き上げられた町人たちのサブカルチャーは他のどこにもない特異性を持っている。瀬戸物を包んだ紙に描かれた浮世絵を見て西洋人は驚いた。赤裸々はポルノグラフィーに驚いた。
アメリカのテクノロジーはほとんど軍事的な目的のために開発されたが、日本のそれはほとんど退屈しのぎのために開発された。
そういう国民のとっての性愛の技法は単純なピストン運動ではなく蠱惑的な方向に向かう。つまり「萌え」があるのだ。脳みその中で逞しくした妄想命のカルチャーである。チラリズムを好む、伝統ある妄想のカルチャーである。