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ざつぼくりん 15「爪の形Ⅴ」

豆腐の水を切り、もう何十年も使っている小さなゴマ専用の焙烙でゴマをいる。パチッとはじける音がしたらすり鉢に移して山椒の木の擂粉木でする。香ばしい香りが立つ。するたびに動くすり鉢の縁を純一の小さな手が押さえてくれた。

純一は胡麻和えは好きだったが、白和えが嫌いだった。これはじいさんの食いものみたいだと言った。それを聞いて孝蔵が大笑いした。食卓はじいさんの食いものばかり多くなった。

串を刺して表面を軽く焼いたかつおの身を氷水に取ってひきしめる。刺身包丁で切り分けて、ごつい備前の皿に盛る。孝蔵の好物だ。

薬味を刻む。穴だらけで葉先のぎざぎざが縮れたシソの葉。万能ねぎ。茗荷。何にも考えずに、リズミカルに刻んでいく。茗荷のてんぷらも孝蔵の好物だ。

出汁を取って板麩の吸い物をつくる。さっき切った茗荷を散らす。孝蔵は麩が苦手だった。こんなたよりねえもん食えるか、と言っていたが、病んでからするんという咽喉ごしのよさが気に入っている。

茶碗を並べる。刷毛模様の入った淡いグレイのご飯茶碗を孝蔵の席に置く。孝蔵はもうこんな大きな茶碗いっぱいには食べられない。動くと息苦しくなるからどうしても運動不足になり、食欲が落ちる。

箸のさきを志津のほうに向けて孝蔵が言う。「あのなあ、思い出したけどなあ、開田モーターズのじいさんなあ、……あれでなかなか隅におけねえんだぜ」
「えっ? おとなしそうなおじいさんじゃないですか」
志津はそら豆を味わいながら答える。

「な、そう思うだろ? ところがな、……駆け落ちしたことがあるんだぜ」
「駆け落ち? あのおじいさんが?」
「ああ、おどろくだろ?」
「どんないきさつなの?」

 あのな、と言いかけて、孝蔵は吸い物に口をつける。全部飲みきって満足げに息をつく。

「じいさんがな、六十の時に三十五の飲み屋の女と出奔しちまったんだ。……ばあさんもまだ生きてたぜ」
 へー、六十、と志津が驚くと孝蔵が、な? という顔をする。

「正夫の怒ったこと、怒ったこと」
 そんなことしたら誰だって怒る、と志津は思う。おばあさんだって怒ったにちがいない。

「ま、結局しょぼくれて連れ帰られてきたわけさ。……それ以来店の看板のようにあそこに座らされてるわけさ」
「あ。みせしめね」
「ははは、ばか。……ごちそうさん。うまかった」
そういって、孝蔵が箸を置く。

「今日はたくさん食べられて、よかったわ」
「ああ。好物ばっかり作ってくれりゃあ、いっぱい食うさ。体にいい食いもんばっかりは、俺、いやだ」
「はい。わかりました」

お昼の健康番組を見てはあれこれ注文をつけるのは孝蔵のほうなのに、そんなことはすっかり忘れている。

「お薬、忘れないでね」
「わかってるよ。今呑もうと思ってたところだ。うるさく言うな」
 うるさく言わなければ忘れるくせに。

「はい。わかりました」
「おい、志津」
「なんですか?」
「おまえ、いま違うこと考えてただろう?」

「えっ、別に。なんでそんなこと言うの」
「お前がばかっ丁寧な言葉を使いはじめたら、ほかごと考えてるって証拠さ」
「ほかごと?」

「ああ。純一がそういってたさ」
「純一が?」
「とうさん、気づいてないだろう、ってえばって言いやがったぜ。……とうさんが自分勝手なこと言い出したら、かあさんていつも、はい、とか、わかりました、とかいうんだけど、……絶対そうじゃないこと考えてるよ。見てたらわかるもん、って」

「まあ……そんなことを?」
「ああ、あいつはお前の味方だったさ、いつも」

「そうかしら。……味方だったらあなたにそんなこと言わないでしょう? でもなんで今ごろそんなこと言うんですか」
「さあな、なんでだろうな」

 ゆっくりと孝蔵が席を立った。テレビから球場の歓声が大きく聞こえてきた。

桜の蕾がふくらみはじめるころ、高崎での仕事を終えた孝蔵が電話で「そっちへ帰るぞ」と知らせてきた。久しぶりに聞く孝蔵の声だった。ぶっきらぼうでしゃがれた声だった。

風の強い埃っぽい日に孝蔵とその荷物が帰ってきた。孝蔵は黙って持ち帰った荷物を物置にしまった。志津には馴染みのないものがあった。

この二年足らずの間の暮らしを互いに何も知らない。自分が独りでどんなにつらかったかを言えば、孝蔵の高崎での暮らしの話を聞くことになるだろう。篠崎の妻は、孝蔵さんはだいぶ前に女とは別れたらしいと言っていた。

気がつくと物置から音がしなくなっていた。見に行くと孝蔵の姿がなかった。作業の途中でふっと消えてしまったような感じがした。

建具の隙間から吹き込む風が鳴る。その音は魂が迷っているかのように高く低く響く。落ち着かない思いで孝蔵を探した。

純一の部屋のドアが開いているのが見えた。
「おとうさん」と言いかけて唇を噛む。もうそう呼ぶ子はいない。

部屋の真ん中で孝蔵が正座をしていた。窓から入る薄い光は孝蔵の背中の片側だけを照らし、もう片側は暗がりに溶けていた。丸まった背中が小さく見えた。

「どうしたの? なにかあったの」
「志津……やっぱり、あいつは……もう、ここにもいねえんだな」

孝蔵の背中が言った。くぐもった声だった。
孝蔵の膝の前に小さな木工の本箱があった。節くれだった孝蔵の指がその木肌を撫でていた。志津は孝蔵のその背中をずっと見ていた。

     
あなた、く・す・りーと志津が大きな声をかける。
「おっと、いけねえ」
「ほーら、忘れたー」
「うるせえー」

薬を飲み終わった孝蔵が茶碗を洗っている志津のそばへきた。黙ってその手元を見ていた孝蔵はなにか思いついたように志津の髪に手を伸ばす。

「どうしたの?」
「いや。なんでもねえ」
そう言って孝蔵は志津の髪を耳に掛ける。

「志津の耳は本当に純一の耳にそっくりだな」

これまで何度もそうしたように、親指の腹と曲げた人差し指で志津の耳を挟む。

「肉が薄くてな。向こう側が透けて見えそうなんだ。……てっぺんはこう丸くてな。……あいつと風呂に入ってよく耳の後ろ洗ってやったなあ」

ゆっくりと何度もこするように撫でる。その指先の爪が純一と同じ形だ。大きく角ばった硬くて切りづらい爪。           
         



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