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ざつぼくりん 29「ひと咫半(ひとあたはん)Ⅱ」
その日の夕飯、ひき肉入りのオムレツを絹子は白い銘々皿に手早く盛り付ける。それを受け取った時生がポトフ風のスープとサラダを添えて各々のベージュのランチョンマットのうえに並べる。
そこへ華子が風呂から上がってきた。こころなし、血色がよくなったように見える。テーブルについた華子は絹子が手渡す牛乳をこくこくと飲みほしたかと思うと、話の途中のような口調で華子がたずねる。
「それで、カンさんていくつなの?」
どうやら、風呂に入っている間もずっと気がかりだったらしい。
「うん? それはむずかしい質問だなあ。な、絹子」
「そうね、すこぶる難問だわ」
「どうして?」
「あのさ、カンさんは謎の人物だからね。誰に聞いても正体不明なんだよ。本人に聞いても『さてね』っていうだけなんだ。あ、いただきます」
そう言いながら時生はスープに入っているおおきなソーセージを齧る。
「そうそう、前にも言ったでしょう? なにを聞いても、あの頭をつるりってなでて『さてね』って煙に巻くのよ」
軽くあたためたフランスパンとバターをテーブルの真ん中に置いて、絹子も食べ始める。そんなふたりを見て、華子もフォークを手にする。
「ふーん、カンさんてほんとは正体不明なの?」
「でも、カンさんがいくつでも、いくら『さてね』ってはぐらかしても、僕たちはカンさんがだいすきさ」
「あ、わたしもなんだかすきー」
弾んだ声で華子が言う。
「はは、そうかあ、華ちゃんもカンさんがすきかあ」
「ね、華子はどうしてカンさんがすきなの?」
そうきかれて華子は口元に手を当て天井を見上げながら、口ごもる。
「うーん、えーっと、……どうしてでも」
「そうだよね、カンさんのことは、なんだかうまく説明できないだろう? 説明しようと思ったらすっごく時間がかかるような気がするんだよね。カンさん、ちょっとだけ変わってるしね。けど絶対にすきだって、わかるんだよな」
「うん、それはわたしもわかる」
「みんなそうなんだと思うよ。……あ、絹子、このオムレツ、うまいよ」
「あら、よかった」
「あのね、時生さん、このたまごはね……」
ゆうせいらんで、おたかいの!、と三人が同時に同じことを言う。
華子が肩を揺らしてくくくくと笑う。笑いながらオムレツに手を伸ばしフォークですくって食べた。それをみた時生と絹子は一瞬顔を見合わせたが、なにごともなかったような顔をして食事を続けたのだった。記念すべき一歩だった。
カステラを気にしながら、洗いものをふきはじめた絹子のそばによって、華子は打ち明け話をするようなひそめた声で話しはじめる。
「志津さんって、この前、時生さんに聞いた、あの純一さんのおかあさんなんでしょう?」
「そうよ。すごく目がきれいな可愛いおばあさんよ」
絹子も抑えた声で答える。
「ふーん、でも、ひとりっこの純一さんが死んじゃったんでしょ? かわいそうよねー。わたし、志津さんの家で泣いちゃったらどうしよう」
不安げな顔つきで言う。華子の可愛がっていた猫の「はなぶさ」は老衰で逝った。消えていくいのちを見送るこころのいたたまれなさを華子は知っている。
「そうねえ……わたしもきっと泣くと思うわよ」
「えっ、絹子さんも泣くの?」
「そう、泣くわよ。だって、ひとがなくなるのは悲しいことだもの。しかも時生さんの幼なじみなんだもん。きっと時生さんはもっと泣くと思う。おなかのなかでふたごも泣くかもしれない……でも、泣きたくなったら素直に泣けばいいんじゃないかなって思うな」
「ふーん、でも、そしたら、志津さん、いやがらない?」
「華子は、はなぶさの話を聞いて泣くひとのこと、いやだと思う?」
「うううん、わたしは思わないけど……理子ねえさんだったら怒ると思う」
「そうねえ。怒るわね、きっと。『よわむし! しっかりしなさい』って言って。ほんとにあの理子はどこへいっても泣かないでしょうね。あの子は鋼鉄製のハートの持ち主よ」
記録と勝負の世界に生きている理子の精神力は強い。その負けず嫌いの性根があまりに強すぎてまわりのものが時々とばっちりを食らう。華子もそのひとりだ。
「鋼鉄製のハートだってー。絹子さんが言ってたって理子ねえさんにいっちゃおー」
「まあ、華子ったら怖いこといわないでよー」
「いっちゃうもーん」
おんなともだちのように顔を見合わせてふたりが笑う。ふふふ、ふふふというふたりの笑い声を聞いて、本を読んでいた時生が目を上げて声を掛ける。
「おい、カステラは焼けたのかい?」
アッ、と言いながら華子があわててオーブンの見張りにもどる。
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