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ざつぼくりん 27「透明ランナーⅥ」
僕の転居を知った幼なじみの仲間たちが、卒業式が済んだ後、お別れのキャンプを計画してくれた。みんなで神奈川県の丹沢まで行った。
夜、黒々と茂る森林を背景に燃え上がるキャンプファイヤーを見ながら僕たちはいろんなことを話した。
純一が将来建築家になりたいという夢を語ったかと思うと、シンヤはロックシンガーになりたいと言い、マコトはラーメン職人になるなんて言い出した。
僕にはみんなのような夢がなかった。母がいなくなり、親しい友人たちとも別れて、生まれ育った土地を離れて、伯母はいるものの、残された三人だけで知らない土地で暮らさなければならないその現実に戸惑っていた。自分たちはどうなっていくのかという不安をずっと奥歯で噛み締めていた。
春がまだ浅くて山の夜は冷えた。純一があたらしい薪をくべると火の粉が舞い上がった。オレンジの炎がみんなの顔を浮かび上がらせた。
「いやになったら、こっちへ帰ってくればいいさ」
炎を見つめながら純一が言った。大きな眸のなかで炎が揺れる。
「ああ、オイラのとこでもいいぜ。団地のお化け柳がおまえを待ってるぜ」
「そしたら俺がうまいラーメンつくってやるからな」
「げー、マコトのラーメンかよー」
冗談を言い、笑いあっていたのに、最後にはやはりしんみりしてしまう。
「時生―、オイラ、ほんとにほんとに、さびしくなるよ」
「ああ、俺もだ。な、純一」
頷きつつも純一はやはり炎を見つめたまま、なにか考え込んでいた。言葉が途切れると風の音が大きくなって聞こえる。木々は夜のいきものであるかのように、ざざざざっと激しく身を震わせる。その音を断ち切るように純一が口をひらく。
「なあ、時生がいなくなるって思わないことにしないか?」
「えっ、それはどういう意味だ?」と、僕が聞いた。
「あのさ、時生はさ、俺らの透明ランナーなんだよ」
「透明ランナー? えらく懐かしい言葉だなあ」
「ひさしぶりに聞いたよ。三角ベースだな」
「ほんとによくやってたよな」
思い出は半ズボンの遠い夏へと帰っていく。
「あ、そうか、わかったぞ。時生は見えなくても塁に出てるんだな!」と、マコトが大きな声で言った。
「ああ。ここにいないんじゃなくて見えないだけだって思うのさ」
「そいじゃ、オイラたちがヒットを打てば、かえってくるんだな」
「そういうことだ」
「おおー、オイラが特大ホームラン打ってやるからかえってこいよ」
「おおー、大ラーメンもつけてやる」
「はは、なに言ってんだよ。マコトー」
透明ランナーという言葉が僕をつつんだ。純一たちと遊んだ遠い秋の日はいつもあっという間に暮れていった。
夕暮れの原っぱを吹き抜けていく風はススキの穂を揺らし、その種子をふわわと空に飛ばし、半そで半ズボンの僕たちの皮膚をすべって体温を少しずつ下げ、一日の終りがちかいと教えるのだった。
ぽっぽっと灯り始めた街のあかりは和紙が色に染まるようにみるみる町中に広がり、気がつくとそばにいる純一の顔の輪郭もはっきりみえなくなっていた。
三角ベースで遊んだ僕らは、秋の虫が競うように鳴き始めた夕暮れの叢に、どれだけのボールを見失ったことだろう。そこにあるのはわかっているのに、僕らには探し出せなかった。
ボールも透明ランナーも歓声もあそこにおきざりにしたまま、僕たちは原っぱを出たのだった。シンヤといっしょに、沈む夕日と競争するように団地に続く坂道を駆け足で登って行ったのは何年生の僕だろう。
明治時代の富豪の屋敷跡に建てられた団地には、時を貫いて生き続ける常緑の大きな木々が豊かに茂っていて、時折、風の通り道を教えるように葉裏を見せる。
子どもたちがいなくなった敷地内にその葉擦れの音が遠い雨の音のように響いていた。水銀灯の光を受けてゆったりと踊る枝垂れ柳の影法師が、あやかしのように僕たちをおびえさせた。
たどり着いた三階の我が家に母はいたのだろうか。おいてけぼりの僕は蛍光灯のしらじらした光の下でいったい誰を待っていたのだろう。
僕の母も透明ランナーのように、ほんとうは僕のそばにいるんだけど、ただ見えないだけで、僕と弟が暮らす日々をどこか見ていてくれて、いつか僕がなにかを成し遂げた日に笑顔で帰ってきてくれるのなら、どんなにいいだろう。
漆黒の闇を切り裂くように揺らめく炎を見つめながら僕は何度もそう思った。
時を惜しむように、それぞれの胸の奥にしまってあったものを語り合ったキャンプから帰った一週間後に、僕たち家族三人は馴れ親しんだこの町を離れた。
荷物を送り出し、からっぽになった部屋を三人で掃除した。僕たちが生まれてからずっと暮らした時間の痕跡を少しずつ消して、鍵をかけた。
それから団地を出て坂を下りた。最後の最後に僕たちは純一の家を訪ねた。
「沢村さんにはいろいろご心配をおかけして、長いあいだほんとうにお世話になりました。特に時生の面倒をみていただいてありがたかったです。この通りです」
そういうと父は畳にこすりつけんばかりに頭を下げた。僕も黙って同じようにした。
「おうおう、よしとくれ。志水さん、そんなことしちゃいけねえ。おれたちゃ、なんにもしちゃいねえし」
「ほんと、面倒みたんじゃないですよ。純一が遊んでもらったんですよ。おばさんも楽しかった。ありがとね、時ちゃん。明ちゃんと仲良くね」
志津さんが早口で言う。
「おお、時ちゃん、たのしかったな、またいつでも遊びにおいで、将棋でもさそうや。明ちゃんもな」
いつもの口調で孝蔵さんが言った。
そのうしろで純一が右手をあげて「またな、時生」と言った。「おう」と僕は答えた。それが僕たちの交わした最後の会話だった。
「あ、これ」と言って僕は孝蔵さんと志津さんの顔を描いた絵を差し出した。それを広げた見た志津さんが表情を崩して「時ちゃん、ありがとね」と言った。
その横で孝蔵さんがからかった
「時ちゃん、おばさんのしわを描き忘れてるぜ」
「なにいってるの。……時ちゃん、おじさんの毛も多すぎるわよ」
志津さんは震える声で言い返した。
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