まあちゃん
こんな時代に、文通なんてもう死語かしら。
遠い日、あたしはせっせと手紙を書いていた。
自分のこと、日々のこと、好きなもののこと、いま考えていること。相手のこと、知りたいこと、この前のつづき。
今思うとそれはある意味、必ずひとり読者がいる、文章修業でもあったのかもしれないね。
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18歳の夏の終わりに、ミュージックライフという雑誌の文通欄にあたしの名が載ったとき、速達で、いの一番に来たのが、まあちゃんの手紙だった。
筆圧の高い、伸びやかな字であたしの名前が彼の初恋のひとと同姓同名なのだ、と書いてあった。
それが作戦なのかどうかはわからなかったが、ともあれ、18歳の秋から22歳の春まで、あたしとまあちゃんは、途切れることなくたくさんの手紙を交わした。
まあちゃんはひとつ年上で一浪した早稲田の学生さんだった。
まだ原宿に歩行者天国があったころ、道路でマージャンをしました、なんていう手紙に早稲田の学生さんはなんてことをするんだ!と京都の箱入り娘は驚いたものだった。
件の雑誌はロック系だったのだがまあちゃんは谷村新司さんのファンで、よく歌の歌詞を書き抜いて送ってきてくれた。けっこうロマンチストなんだなあと箱入り娘は思ったりもした。
適度な間をおいて、互いの日々の出来事や強く感じたことなどを綴った文章が往還した。まあちゃんは、心憎いようなしゃれた表現がうまかった。
「appi(当時のわたしのニックネーム)の文面に惚れたこともありました」
そんなことばにいささかドキドキもしていた。
4年の間にまあちゃんには3度会った。
長身で痩身で色白で長髪で女顔のまあちゃんが、サロペットのジーンズに法被なんか着て京都の町を歩くと、人目を引いたものだった。そばにいて、誇らしいような恥ずかしいような気分だった。
大学4年生の春、まあちゃん名古屋のほうの会社に就職し、わたしは結婚することになっていた。
四条の「築地」という喫茶店で会ったのが最後だった。
数え切れないほどまあちゃんの住所を書いたのに
今は杉並区だけしか思い出せない。まあちゃんの苗字はなんだったかなあ。
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ひとは忘れてしまうものだな、としみじみ思う。これからは拍車がかかることだろう。だから書き残す意味があるんだろうな。
過去の自分に、新鮮な思いで出会うのも、また楽しいことのような気がしてくる。
あ、思い出した。竹山さんだったよ。たぶんね。