見出し画像

ふびんや 9「カタオカ Ⅰ」

陽射しのない寒い日の午後、脳梗塞で入院している摂を見舞った帰り道、あずとひなの足取りはいささか重く、金縛りにあったように言葉もない。

ひなは幼いころから病院に誰かを見舞うと、言いようのないけだるさに包まれて帰ることが多かった。あるとき、あまりにつらくて、いっしょにいた祖母のチセに「気持ちが悪くなった」と告げると、チサはこともなげに「見舞いていうのはそうもんや。あんたのおかあちゃんもおんなじこと、よういうてたわ」と言った。

そして「かんにんえ」と小声で言いながら、ひなの肩のあたりを手の甲で祓った。不思議そうな顔つきのひなに、チセは和裁や料理を教えるときとおなじ口調で言った。

「病院のくらがりにはな、病気でそこから帰れへんようになってしもたひとの無念がな、ようけ、うずまいてるねん。帰りとうて帰りとうて、それでも帰れへんかったひとの思いが、見舞いに来た元気なひとの肩にひょいっと乗っていっしょに帰ろとするねん。悪気はないねんけど、その思いがきつすぎて乗られたほうはしんどなってしまうねん。そんなときはな、肩のとこをぱっぱって、手ではろて『かんにんえ、きょうはあかんねん。またこんどな』ていうて断ったらええねんで」

大学病院そばの人通りもまばらな遊歩道でそんな言葉が蘇ってきて、うかがうようにあずを見ると、あずにはあずの物思いがあるらしく、やはりうつむいたまま歩を進めている。

葉を散らし終えた欅の細枝のあいだを木枯らしが吹きぬけていく。足元で、でんぐり返りをしながらカラカラと飛ばされていく落ち葉を目で追いながら、ひなは口をひらく。

「……やっぱり摂おばさん、お正月、家に帰れないのね……」

その声で我にかえったような表情のあずもゆっくりと言葉を選ぶ。

「……まあなあ……あのお家も古うて隙間風が入って寒いし、あの病気は血管が縮むとあかんさかいな……まあ、無理せんとぬくい病院にいたほうがええっていうことやろなあ」

「でも、おばさん、あんなにリハビリがんばってるのに……残念だよね」

懸命に麻痺した左半身のリハビリに励む摂の残像がひなの思いにからみついている。

救急病棟に運ばれて緊急手術を受けた直後は、なんとしても摂が生きていてくれることがだいじなことだった。死なないこと、家族はただそれだけを願っていたという。左半身の麻痺はいのちの瀬戸際で支払ったやむをえない代償だったが、死神を追い返して、なお生き続けようとしたとき、前に進もうとする右半身を麻痺した左半身が押しとどめる。

もう前のようには暮らせないと言い張る左半身の造反にとまどい、いらだちつつも、なんとかなだめて動かそうとする摂の、これまで見たこともない必死の顔つきがどうにも消えない。

「まあ、残念は残念やけど、そうとばかりもいえへんと思うわ……思うに、帰らへんて決めはったんは摂さん自身とちがうやろか」

「そうかなあ、おばさんはやっぱり帰りたいんじゃないの?」

「そやろか。今日かて、事情のわかってるわたしらは特別やさかいに、動かへん足を動かそうとしてるあの姿を見せてもかまへんて思わはったんやろけど……なんも知らんほかのひとには絶対に見られとうないのとちがうやろか……なんて言うたらええのかなあ、そや、摂さんの美学やろか」

「うーん、それって美学っていうのかなあ」
「ああ、矜持っていうのかもしれへんな」
「きょうじ? 難しい言葉ねえ」

「摂さんは毎年暮れは忙ししたはったやんか。仕事関係のこともあるし、家のこともある。近所のひとの分までたんとおせち作って……あの働きもんの摂さんが、それがしとうても、でけへんねんで。家に帰っても出来ることがのうて、統三さんやあかねちゃんの世話になるばっかりや……そら、いろいろ気持ちの出入りがあるに決まってるわ」

「ではいり、かあー」

遊歩道はバス停のある大通りへと続く。路線バスは真っ直ぐ進んで停留所を七つほど止まって、自宅そばまで運んでくれる。近いといえば近いが、遠いと思えば遠くもなる。

「でも、病院でお正月迎えるのって、寂しくない? いつもは親戚とか近所のひととか大勢集まってあんなに賑やかなのに」

「まあ、そこが天秤やろなあ……もっと自分の体がシャンとしてから帰るつもりなんやろと思うわ……まあ、わたしらは、気いなごうして待ってよ」あずはそういうと、ひなの手をとり、手袋越しにその甲を軽く二度叩いた。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️