こどものきもち。
めずらしく熱心に本を読んていたころのこと。
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森絵都さんの「永遠の出口」「いつかパラソルの下で」、角田光代さんの「空中庭園」、湯本香樹実さんの「ポプラの秋」を読んだ。
これらは自分の好みで選んだものだけど、共通して子供の気持ちを引きずったままの大人が描かれているのに気づいた。
うろ覚えなのだが、子供から大人へのはしご(階段だったかな)っていうのがあって大人になるとそれを取り外してしまうから子供のころのことを忘れてしまうんだ、とかケストナーが言っていたように思う。
しかし、この作家さんたちはそろってそのはしごを取り外すことなく、大人になってもいつでも子供の思い、不幸や悲しみにまで帰っていけるひとたちのように感じた。
湯本さんの「夏の庭」もそうだったが、「ポプラの秋」もひとの生死に関する子供の不安だとか怖れにそういう説得力があった。
ああ、そういえば、あたしの数少ない読了本である、森絵都さんの「つきのふね」も角田光代さんの「キッドナップツアー」も山田詠美さんの「放課後の音符」も、そうそう、重松さんの「きよしこ」も、大人ではない年若いひとが体験したあまりしあわせとはいえない出来事の顛末や思いを若い言葉で語っている。
通り過ぎて帰りこない時間を、思い出だけでなく、作家の想像力と大人の思慮を持ってたどって行く、これらの困難なものがたりの道筋は、いたいたしくもみずみずしく、印象的に続いていく。
森さんの「いつかパラソルの下で」のなかに、主人公のおにいさんが恋人から罵倒された言葉を、妹たちに告げるくだりがある。
「実はこの前、俺、五つも下の彼女にすげえ罵倒されたばっかでさ。親父のせいで俺の人生が狂ったとか、またいつもみたくぐちぐち言ってたら、いい年こいて自分の人生を親のせいにすんな、二十代半ばも過ぎたら自分のケツは自分でぬぐえ、って。あれはこたえたなあ」
「それだけじゃないぜ。誰だって親には恨みのひとつもあるけど、忘れたふりをしてるんだ、親が老いて弱っちくなるのを見てしょうがなく許すんだ、それができないでこれからの高齢社会をどうすんだ、みみっちいトラウマふりかざして威張ってるんじゃねえって、それはそれはひどい罵倒だったんだ」
おにいさんはこれは「こたえる」と言いながら、この罵倒した彼女と結婚することしたと報告する。
「誰だって親には恨みのひとつもある」という言葉は刺さる。子であった自分、親である自分の両方に刺さる。
そして「わすれたふり」をすると言われると、俯いて歩く背中を後ろからどやされたような気がしてくる。これこそが、大人になるために必要なステップはこれかもしれない。
そして、どんなトラウマも自分以外の人には、みみっちいものがもしれないとも思ったりする。
いやはや、このセリフは実に潔い明解な言葉だなあと感じ入る。智慧の輪は思いもよらないほどけ方をするものだ。
どれだけ年を重ねても、恵まれなかった子供時代をなかったことにはできない。その傷みをひきずって年を重ねてしまう。傷のかさぶたはいつだってはがれ疼く。うまく生きていけそうにない予感が走る。
そういう生きづらさをかかえた、たくさんの登場人物に出会ってきた。
それぞれ傷つきながらもわずかに希望の足がかりをみつけて、それらのものがたりは終わっていた。
ものがたりはそういうこどもや、かつてこどもだったひとへの応援歌なのだな、きっと。